思想新聞 平成9年(1997年)3月5日号
Q–中国で鄧小平が亡くなりましたが、共産党はいわゆる鄧路線をどう評価しているのですか。
A–まったくと言ってよいほど評価していませんね。なにせ日本共産党にとって、鄧小平の中国は日米安保条約を事実上容認してしまった、いわば「裏切りの党」というわけですから。それに中国共産党が日本共産党に「干渉」したことを反省しないとして、現在も関係は断絶したままです。それで、鄧小平の死に冷ややかなのです。
Q–言ってみれば、離婚した夫婦みたいに複雑な関係にあるのですね。いったい、いつから関係が悪くなったのですか。
A–もともと日本共産党はソ連とも中国とも仲は良かったのですが、なかでも宮本議長は中国寄りでした。昭和30年代に中ソ対立が深刻化すると、どちらを支持するか選択を迫られました。これはどこの国の共産党も同じです。とくに昭和36年にアルバニアが東欧ブロックから離れて、ソ連批判を展開しますと、フルシチョフはこれをスターリン主義として激しく非難します。各国共産党はそれに対する立場を明らかにせざるを得なくなりました。宮本議長は「中国寄り中立」という微妙な立場を取ります。
Q–なるほど、はじめは中国寄りだったわけですね。その後、ソ連共産党とケンカしましたね。
A–昭和38年にソ連は米英と部分核停条約を結びます。核を三国で独占しようというわけです。これには中国が怒った。日本共産党はこれに同調します。ところが党内のソ連派、つまり志賀義雄らが党の決定に反して条約に賛成の態度を取りました。これを共産党は「大国の干渉」として猛反発、ソ連派を粛清し、中国にのめり込んでいくことになります。
Q–それがなぜ、中国とも袂をわかつことになったのですか。
A–宮本議長は昭和41年2月、北ベトナム支援の国際統一戦線をつくろうと意気込んで中国に乗り込みます。この年は1966年、ちょうど文化大革命が始まる年ですね。宮本議長に会った毛沢東は開口一番、「戦争を回避しては世界革命はできない。君達は革命をやるために武装闘争する腹を決めているのか」と、武装闘争方針をとることをすすめたのです。驚いた宮本議長は日本に逃げ帰り、「毛沢東思想」「鉄砲から政権論」を押し付けられたとして反中に転換します。今度は党内の中国派の幹部を粛清して、結果的に宮本路線が成立することになるのです。

Q–それで「自主独立」路線なるものが登場してくるのですね。北朝鮮に「主体思想」が出てくるのと似通っていますね。となると、その後、毛沢東が死に中国共産党が文革を誤りと認めたわけですから鄧小平と日本共産党はよりをもどしてもいいはずですね。
A–ところが、そうは問屋がおろしません。たしかに、鄧小平が復活した80年代の初めに共産党は中国との関係正常化に意欲を持ちます。中国共産党が「干渉」を反省すればよい、と思っていたのです。しかし、ことはそう簡単ではありませんでした。その経緯は次回に話しましょう。


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