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ポピュリズムを助長する名古屋市の住民投票

この記事は2011年1月19日に投稿されました。

名古屋市と鹿児島・阿久根市で市長と議会が対立し、リコール騒動が起こった。名古屋市では市議会解散の賛否を問う住民投票が1月17日に告示され、一方、阿久根市では住民投票で前の市長が失職したことに伴う市長選挙が16日に行われ、前市長の竹原信一氏が落選、リコール=解職請求運動を進めた住民グループの元役員の西平良将氏が当選した。これで阿久根市の混乱は収拾されることになる。名古屋市の住民投票は愛知県知事選(20日に告示)、名古屋市長選(23日に告示)とともに2月6日に「トリプル投票」が行われ、その結果によって市議会 の今後が決まる。

首長と議会の「不毛の対立」を招く

こうした動きは地方政治の「不毛の対立」といってよい。名古屋市では河村たかし市長が市議会リコール(解散請求)を仕掛け、一方、阿久根市で竹原信一前市長が専権事項を乱発し、議会側が市長リコールに動いた。なぜ両市でこうした事態に至ったのか。それぞれ背景は違うが、共通するのは首長が議会に阻まれてリーダーシップを発揮できなかったからである。むろん議会側からいわせれば、首長が議会を無視して強権を発揮しようとしたところにある。いずれにしても首長と議会の意見が一致しなければ予算も条例案も成立しないから、不毛の対立というほかない。
 名古屋市では、河村市長が2009年4月の市長選挙で「ナゴヤを日本一税金の安い街にする」として市民税10%減税や職員の総人件費10%削減、ボランティア委員会(地域委員会)設置などの「庶民革命」を掲げ、過去最高の51万票を獲得して圧勝した。市民の支持を背景に公約実現へ大胆な減税案や議会定数・報酬半減案などを議会に提示した。河村氏は民主党出身だが、市長選出馬に当たって民主党愛知県連が公約に疑義をはさんで推薦せず、与党が存在しなかった。案の定、市長提案に対して議会側が難色を示した。減税の代替財源を示さず、地域委員会には公平性や大衆迎合の危惧を残し、議員定数・報酬の半減は極端すぎるというのがその理由だった。業を煮やした河村市長は議員報酬の半減案を議会に提出するなど対立を強め、「保身議会vs庶民革命」と主張し、議会のリコール運動を展開し、紆余曲折を経て昨年12月にリコールが成立、市議会解散を問う住民投票となった。
 一方、阿久根市も名古屋市と似たような構図である。竹原市長は08年に市長選に当選した後、職員給与の削減などに応じない議会に対して議員定数の大幅削減(16から6)を提案するなど、議会側とことごとく対立してきた。09年2月に議会が全会一致で不信任決議を採択したため市長は議会を解散、出直し議会で再度、不信任決議を採択され失職したものの、5月の出直し市長選では接戦の末、再選された。議会と市長の対立構造を市民自らが選択した格好で、その後の対立は決定的となった。2010年に入って竹原市長は議会を招集せず、副市長人事など専決処分を乱発した。反発を強めた反市長派は市長リコール運動を展開し、12月に解職を問う住民投票が行われ解職、そして今回の市長選で竹原市長は敗北した。名古屋市では不毛の対立の最中にある。住民投票で市議会解散が決定し、市議会議員選挙が行われても、河村市長派が過半数を制するとは限らないからだ。いずれにしても2月6日以降に問題先送りである。

地方版の「郵政・刺客選挙」の様相

河村市長や竹原前市長の減税や経費節減に辣腕を振るいたい意気込みは理解できる。だが、手法はポピュリズム的である。議会を悪者にし、マスコミを使って市民から喝采を浴びる。その人気を背景にさらに強引に政策を押し通そうとする。小泉元首相の郵政選挙、刺客選挙を彷彿させる手法である。目的のためなら手段を選ばないというのは民主主義の範疇外である。言っていることがいくら正しくとも手続きを踏まなければ、それが逆に悪になる。そんな危険性を河村市長から感じ取る国民も少なくないはずだ。それにしても乱暴な手法、ポピュリズム、喝采政治が地方政治にまかり通っている。リコールは地方自治特有の制度で、あくまでも住民の直接民主制を体現するものである。だから首長自らが議会のリコールを求めるのは法の想定外といえる。たとえ市長派住民によるリコールでも河村市長自らが音頭をとって行うのは、地方自治の本旨から逸脱する異様な行為といわざるを得ない。また竹原前市長の議会を招集せず専決処分を乱発する行為もおかしい。地方自治法において専決処分は議会を召集する余裕のない緊急時を想定しており、竹花前市長のケースは法の精神から逸脱していた。
 確かに首長がリーダーシップを発揮しようとすれば、議会が足かせになるケースはあり得る。大阪府の橋下徹知事も議会としばしば対立している。だが、強引な手法は地域社会に禍根を残す。もとより議会側にも問題がある。長年にわたって「オール与党」と化し、慣れ合い議会に陥って執行機関に対する監視機能がマヒしている議会も少なくない。議員は地元への予算獲得にうつつを抜かし、あるいは一部団体と気脈を通じ、その代弁者となって市政を私物化しようとする古参議員もいたりする。それで議会に不信感を抱く住民も多い。指導力のある首長が登場すると、議会の実態にあきれ、歯がゆくて仕方なくなる。その気持ちは理解できよう。
 こうした反省から議会側も「議会条例」などを作り、開かれた議会を目指して定期的な住民対話や広報の活発化を図ったり執行機関との関係を正したりする動きが出ている。わが国の地方自治制度は首長と議会の二元代表制をとっていることを忘れてはならない。首長と議会はともに住民の直接選挙で選ばれ、首長は執行機関、議会は議決機関として、車の両輪のように地方自治に「共同責任」を負っている。それが憲法に規定された、わが国の地方自治制度なのである。

住民投票制は地域の分裂を深めるだけだ

英国の政治家ジェームズ・ブライスは「地方自治は民主政治の最良の学校、その成功の保証人である」と述べている。民主政治は対話によって合意形成をはかる政治過程を重視する。身近な地方自治は、そのための最良の学校というわけである。こうした民主主義の学校を否定し、直接民主主義を金科玉条のように住民投票制度を導入しようとする動きがあるが、我々は反対である。地域の政治分裂を深め、ポピュリズムや喝采政治をまかり通れば、民主主義が脅かされる。地方自治の本旨を取り違えてはなるまい。

2011年1月19日

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