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日本という「美しい国」の使命

─世紀末現象を超えて為すべきこと─

思想新聞 1998年12月25日号

世界平和連合会長    国際勝共連合会長  久保木 修己

 この一文は、平成8年3月の世界平和連合創設大会における久保木修己会長の「平和をつくりだす者」、および平成9年2月の全国代表者大会での「本源からの視点」と題する講演が基調となっています。久保木修己会長執筆の『愛天 愛国 愛人』(世界日報社刊・平成8年2月初版)以降の講演録や所感は「思想新聞」や『月刊パックス』誌上の「久保木修己・21世紀談義」(14回連載)に掲載されてきました。それらを出版しようとの計画があり、会長自らまとめられつつありました。ここにその一部を紹介させていただきます。久保木修己会長が何を訴えようとされてきたのか、それを知る一助になれば幸いです。(編集部)

1、神の国のひな形──日本の「国のかたち」

 私たちの住まう、この日本列島の美しさの実感が、世界をめぐるにしたがって深まっていくのは、私ひとりだけではないと思います。

 ユーラシア大陸の東の縁に沿って、北東から南西に連なること3千キロの細長い列島が日本です。北海道、本州、四国、九州の四島を軸に、北方領土や沖縄をはじめとする約4万5千5百の島々から成り立っています。

 そのいずれもが美しく、神秘的ですらあります。この島々がどのように誕生したのか、古代の日本人はそれを神話として『古事記』などに書きとどめております。男の神様である伊邪那岐と、女の神様である伊邪那美が、天神から命じられて天から矛をさしおろし、海水をかきまぜてつくったとあります。古来から日本人は島々に神の摂理を感じ取ってきたのでしょう。

 この日本は、ある意味で適当な広がりを持った国土です。もし、神が世界のどこかに神の国の雛形をつくりたい、万民が仰ぎ見るような神の国にふさわしい国をつくりたいと願うならば、この日本を選ばざるを得ない、と私は想像するのです。

 春夏秋冬、四季折々が美しく彩られている日本です。どんなに厳寒身を劈つんざくような寒さがあったとしても、三か月だけ我慢すれば、やがて春が来ます。そして夏が来て、どんなに酷暑であろうと、やがて秋のさわやかな季節がやってくるのです。この季節の折々の美しさの中に、さまざまな彩りの作物が、見事に実ります。これは他の国ではなかなか難しいことです。

■広大なアメリカでは教育も難しいことだ

 たとえば、アメリカ合衆国です。アメリカはたしかに非常に素晴らしい国ですが、いかんともし難い地域の広がりがあります。太平洋岸から大西洋岸まで4千キロ、カナダ国境からメキシコ湾まで2千キロ。アラスカやハワイを加えますと、その広さは日本人には想像がつきません。

 日本の場合は縦、つまり南北に広いので時差がありませんが、アメリカの場合は横の東西があまりにも広いために大変な時差があるのが特徴です。西海岸から東海岸まで、ジェット機で5時間近くかかります。ハワイからだと、ゆうに7時間くらいの時差があります。もちろん今日、高度な情報社会がきつつあり、インターネットの発達などによって国土の広さが短縮されてきています。しかし、均質な社会をつくっていくことは並大抵ではありません。

 クリントン大統領は97年2月、2期目の就任に当たって施政方針演説を発表しましたが、その中で第一に強調したのは教育改革でした。アメリカが世界に誇るべき第一の政策は、教育改革だと言うのです。

 それは、全国民が8歳までに読み書きがすべてできるようにする教育制度をつくりたい、そして12歳までにインターネットを駆使できるようにしたいと言うものです。大層な自信でクリントン大統領は演説していました。

 もちろん、アメリカは90年代半ば以来、経済状況がきわめてよく、上昇気流にあります。その自信が教育改革を第一にあげる背景になっているわけですが、逆に言いますと、それほど均質な教育を施すのに困難な広大な国がアメリカということになります。

 ここが日本とは大きな相違です。日本の場合、インターネットによる高度情報社会と言わずとも、日本のどこに行っても時差がありません。東京からどこにいけば時差があるのとか言えば、中華民国にいったときに一時間の時差があります。

■「母なる海」とヒマラヤに育まれた日本列島

 このことからもお判りのように、適当な広さの国なので、いろいろなことの伝達においても国土的に適当です。その中に1億2千万人の、平均的に教育水準の高い人々が生活しているのです。誰が何を言っても理解できるように、そういう均質な環境の中に生きているわけです。

 考えてみますと、日本は中近東の熱砂の砂漠地帯と地理的な緯度から言えば、さほど変わりがありません。昼は酷暑、そして夜になるととてつもない寒さに襲われる気温の変化の激しい砂漠地帯と日本列島は、緯度的には近いわけですが、取り巻く環境が大きく異なるために熱砂の大地にならずともすんだのです。

 まず、太平洋という「母なる海」のお陰です。南からは黒潮、北からは親潮が日本列島を境に交差し、海の幸を運んでくるばかりか、春夏秋冬の四季をもたらしてくれるのです。

 そして、最近発見されたのは、世界の屋根と言われるインド・ネパールのヒマラヤ山系の山々が日本の季節と深く関わっているということです。ヒマラヤに降る雪が豊かな水を生み、モンスーン型の気候、四季折々の美しさをもたらす気象環境をつくってくれているそうです。

 このような四季がなければ、砂漠のような状態の中で生きて行かなければならなかった日本民族です。中近東の砂漠の地下には無尽蔵に近い石油資源が埋蔵されていますが、日本には地下資源などはほとんどありません。資源もなく熱砂の砂漠地帯であったら、いったい日本民族はどのように生きながらえるでしょうか。惨めな民族だったことでしょう。

 その意味で、私たちはインド・ネパールの山岳地帯に住む人々のさまざまな苦労のお陰で、日々、このように豊かに暮らせている部分もあることに思いを馳せるべきでしょう。日本人の平和で豊かな暮らしは世界中のいろいろな恩恵を被って成り立っているわけです。

 こうした四季を背景に、神は日本人を信義の重んじる、和の精神にたけた、優しい穏やかな民族に育んでくださったのです。とすれば、神はこの民族を鍛え上げて、日本を神の国の雛形として世界の誉れとしたいと願うはずでしょう。

■悪魔もまた、ひな型として日本を狙う

 しかし、この世界にはもう一方、悪魔という存在があることを否定してはいけません。二元論ではありませんが、神と悪魔というこの対立構造が、個人に始まって家庭、社会、民族、国家、世界のあらゆるところにうごめいているのです。近代ヒューマニズムの精神につかっている現代人は、この事実をなかなか見ようとしません。これが今日、私たちに大問題となっているのです。

 神が日本を神の国の雛形にしたいと思うのと同じように、この悪なる存在もまた、この民族を悪の雛形にしたいと願わないでしょうか。

 かつてアメリカ大統領だったレーガン氏は、いみじくもソ連を「悪の帝国」と呼びました。まさにソ連は神なき共産主義を標榜しながら、世界を席巻しようとしました。しかし、あまりにも広い国土、あまりにも多民族であったがゆえに、もろくも悪の構図は崩れ去ったのです。

 悪の雛形として次に狙われているのが日本であると言っても過言ではありません。その現れのひとつが、世界中で共産主義が崩壊しているにもかかわらず、日本だけで共産党が躍進していること、もうひとつは日本民族をして宗教嫌いにさせたオウム真理教事件です。

 いずれも、日本民族の精神構造を根底から崩壊させる現象として、この悪の構図に注目せざるを得ないのです。このように考えますと、実に日本は重要な立場に立たされています。ですから、日本の使命を今一度、吟味しなければなりません。

2、近代ヒューマニズムとオウム事件、国際環境

 95年の阪神大震災や地下鉄サリン事件、そして98年にまで続く官僚の汚職腐敗など、最近の事件は考えれば考えるほど、訳が分からなくなるような、何故こんな事が相次いで起こるのだろうかと首をひねらざるを得ない問題がよく見られます。

 結論から申しますと、いわゆる近代ヒューマニズムという考え方、この精神が非常に大きな害毒を流しているということです。ヒューマニズムそのもの自体は悪いものではありませんが、そこに内包している問題が派生して、さまざまな事件が起こっているです。

 今日はあらゆる学問・思想体系において、その底辺に近代ヒューマニズムの精神が大きな影響を及ぼしています。では近代ヒューマニズムとは何か、これを一言でいえば、人間の目線以上のものを認めない、人間の目線でしか物事を考えないということにつきます。

 この考え方で物事を判断しようとすれば、物事の本質が分かりにくくなっていく。そして、先行きが不透明になっていく。その意味において、私たちは近代ヒューマニズムの弊害から早く脱却し、それを超克した本質的な視点に目覚めなければならないのです。

 この事が出来ないがゆえに、今日の日本と世界は大混乱に陥りつつあると言っても過言ではありません。

■なにが若者をしてオウムに走らせたのか

 たとえば世間を震撼させたオウム真理教事件がそうです。オウム真理教に学歴の高い優秀な若者が入り、そのとどのつまり、恐ろしい事件を引き起こしました。彼らは世の中の近代 ヒューマニズムの泥沼の閉塞状況から這い上がりたい、何とかして現状を乗り越え、人間の目線以上の何かを知りたいと焦って超常現象や霊的体験に突っ走ったのです。

 それを巧みに誘導していった麻原彰晃という教祖は、不幸な生い立ちから、親・兄弟、周囲の人たちを恨む怨念の気持ちを抱いていたのです。人間性の最たる欠点とも言うべき怨念こそ、近代ヒューマニズムの深層心理に横たわる情念なのです。

 私が近代ヒューマニズムの超克をしばしば強調するのは、その超克された奥底にあるものが、いわば神の世界で、その対極にあるものが悪魔の世界であるからです。

 その人間の怨み心に復讐心が対比的に生まれてくるのです。怨念と復讐、この観念を持ち続ける限り、世の中は絶え間なく闘争に明け暮れ、さらに言えば戦争にまで発展し世界を破滅にまで追い込んでいきます。

 この怨念、いわば悪魔の囁きに取り憑かれたのがオウム真理教であったわけです。

 この悪魔の囁きといったものがあるとするなら、悪魔は日本人の最もすばらしいものを破壊しようとするでしょう。つまり、日本国民の精神的な風土を完全に攪乱させる、日本人の心を目茶苦茶に乱すでしょう。

 それには、日本人が信じている宗教の問題を取り扱う事が一番得策であると考えるに違いありません。そこからオウム真理教が狙われてしまったと言えます。

 なに故に狙われるのか、その結論は中心人物たる麻原が怨念に満ち満ちていたからです。常に他に責任を転嫁して、怨念を持ち続ける、やたらに向上指向だけは強い、そういう人間だから悪魔が働いたと言わざるを得ません。

 残念にも、そのような人物に多くの優秀な若者たちが影響されて、あの様な事件を起こしていったのです。

 ■私の存在を問う本源からの視点

 オウムの問題一つ取ってみても、今や日本は、限界まできていると言えるでしょう。故に私の結論は、唯ひとつ我々の原点をはっきりと見据えていかなければ希望がない、日本に光明はもたらされない、という一点であります。

 つまり、私はどこから来たのか、この宇宙はどこから来たのか、宇宙の根源とは何か、私の根源とは何かといった本源からの視点で問い定めてゆく姿勢が重要です。

 そうすれば、これからの日本と世界を光り輝くものにしていくことが可能になるに違いありません。

 今まで権威あると思われていたもの、世の中で素晴らしいと思われていたものから、崩れ去って行くといった現象が見られますが、これは世紀末にかけてさらに累増化されていくと思わざるを得ません。

 本質を見つめ直して、そこから出発してくる思想がなければ、破滅状態から脱することはできないでしょう。あらゆる分野でビッグバン的な大転換が不可欠なのです。

 世界の状況はグローバリゼーション、国際化が進んでいます。伝統的な国境や地域経済はほとんど意味を成さない。ウルグアイ・ラウンドからWTO(世界貿易機関)に移行しているように、国際組織が数多くできている。世界中での経済と情報の流動化、この恐るべき流れに対して、何とか調整をつけなければならないということで、国際組織が生まれています。

 その反面、一国主義が徘徊しつつあります。たとえば96年のアメリカ大統領選挙では、パット・ブキャナン現象が起こり、彼の打ち上げた「アメリカ・ファースト」という、アメリカ第一主義が大きな支持を得たのです。アメリカ第一主義という考え方は、「もうアメリカ以外の事は考えない」ということです。
 さまざまな分野で一国中心主義に変わりつつあることを否定できません。

■世界中にひしめく一国主義の嵐

 これはクリントン政権下でさらに加速されてきました。外交音痴ということで、国内問題を優先する一方、国際感覚の稀薄な中で外交政策が打ち出される恐れが高まり、おかしな方向に導かれて行く、そうした傾向の中で世紀末が推移しています。

 またヨーロッパでは、共通通貨政策を打ち出しましたが、各国は自国の利益を重んずるあまり、ヨーロッパ通貨に批判的で、国際マーケットにおいて大きな問題を起こそうとしています。

 あるいはロシアでは市場開放政策をとる勢力があるかと思えば、一方では民族的な閉鎖的な政策をとろうという勢力が勢いを増し、一国中心主義に帰ろうという方向になってきているのです。 

 中国も同じ傾向です。故 鄧小平の開放政策に対する批判が共産党内部に渦巻いており、江沢民主席や朱鎔基首相の政策が行き詰まれば開放政策の再検討を余儀なくされ、さらには社会主義思想による締め付けが厳しくなってくることでしょう。

 世界中が一国中心主義か、地域中心主義に戻ろうという趨勢になってきています。グローバリズムが世界を覆いつくそうとしている反面、一方でお互いに相反する抜き差しならない現象が、世界の混乱を巻き起こしています。

 一国の政治家の限界は何かと言うと、国を乗り越えるのが難しいことです。それを放置すると、国家も孤立化せざるを得ない。そういう憂いを持たざるを得ません。

 本当の意味での国際感覚、世界のために自国の利益を犠牲にしてでも世界の発展のためにと考える政治家が一人でも多く出てくることを心から願わずにはいられません。そうでなければ、日本は滅びると結論せざるを得ないでしょう。

 真の宗教心に目覚めよ

「本源的な視点」に立ち返って考えるとき

3、日本人に望まれる「心の貴族」たる気概

 平成7年に亡くなられました司馬遼太郎氏は、ご承知のように、「坂の上の雲」や「竜馬が行く」などの歴史小説を残して、多くの人々に感銘を与え続けておられます。

 あの方は一冊の本を書くごとに、ゆうに4百冊の本を読まれたと伝えられております。もちろん、その読書は乱読ではなく、一字一字に赤線を引きながら熟読玩味するという読書の仕方でした。その集大成が後に司馬史観と呼ばれ、多くの人々に影響を与えました。

 晩年には日本の政治家や経済人、文化人らが揃って司馬氏の門を叩き、日本の行く末はどうなって行くのか、我ら日本民族は何を成すべきかと真剣に問うたといいます。

■このままでは日本が危ないとの憂国の訴え

 亡くなる寸前に遺言のように残された言葉が有名です。その頃、住専の問題や金融界の不祥事件、大蔵省や厚生省官僚たちの腐敗が噴出していました。このような一連の事件に司馬氏はついに、「もう日本は駄目かもしれない、もうこれ以上は日本は栄えていくことはあるまい、むしろ日本はこれから静かに衰えていくのではないか」という言葉を残されました。

 石原慎太郎氏も同じようなことをおしゃっている。彼は国会議員を辞め、現在は随筆などを書いておられる。

 その中で彼は国会議員であったときには、司馬遼太郎氏に対して、日本が静かに衰えていくというのは何ごとぞ、けしからん奴だ、とんでもないことを言うと思っていたが、自分が国会議員を辞めて静かに日本の行く末を考えてみたとき、司馬さんの言うことももっともだ、と思わざるを得なくなったと述べておられる。私は彼が実に正直な人間であると思いました。

 もうひと昔前のことですが、ある雑誌に彼は私のことも書いております。久保木は随所でこのまま行けば日本の行く末が危ないと言っているが、とんでもないことをいう奴だ、日本はそんな事はない、バラ色の未来が開けて行くのである、と述べていました。

 私は日本の政治家というものは、その立場上、自分の明日の選挙のことしか考えない、それが日本の政治家の悲しい定めであると思っていましたが、彼は政治家を辞めて、率直に今までの偏見や考えを悔い改めて、真実を表現しようとしています。その勇気を高く評価するものです。

 このように司馬氏にしても石原氏にしても、日本の未来を憂いて、憂国の論調というものが今日に至りまして、強く大きく国民の前に訴えかけられるようになりました。日本がこのままでは危ない、と。

 そして、その論調のほとんどが、もうこうなった以上は、より本源的な問題、本質的な問題に目を向けるべきである、そこから出発しないと日本人は立ち上がることができないというものです。

■なぜ日本人はかくも幼稚になったのか

 これは実にいい時代がきつつある、いよいよそういう時がきたと思わざるをえません。その折も折、福田和也という学者が、「なぜ日本人はかくも幼稚になってしまったのか」といった衝撃的な題名の本を書いて、これが多くの人々に読まれるようになりました。

 そのキーワードは何かというと、知識や才能の幼稚さを言うのではありません。今日の科学技術の発達や高度情報化時代の発展に見られるように、人間は極めて高度なものを身に付けてきています。彼のいう幼稚さとは、どうでもいいような事に頭がいって、本当の根源的な問題をなおざりにしているということです。

 つまり人間とは何ぞや、人は何のために生きるのか、人間は何処からきたものか、そして今何処に止まっていて、やがてこの我は何処に行かんとするのかという、古今よりの三大疑問といわれている本源的な問いに対して、日本人は考えることが少くなってきている。そしてどうでもいいようなことに目が眩んで、経済優先主義ということで金儲けにばかり走る。そのことが人間の幸せだと錯覚を起こして狂奔して行く。その幼稚さ加減というものが、もはや我慢がならないと福田氏は述べているわけです。まさに名言であります。

 今日の日本人の醜態ぶりというものは、いわゆる近代ヒューマニズムというものにどっぷりと漬かってしまったことに由来します。ドイツにおけるいろいろな哲学者、なかでもニーチェなどは神は死んだという有名な言葉を残しておりますが、そういうような時点から、いわゆる近代ヒューマニズムとは言葉を変えて一言でいえば、人間の目線以上で物ごとを考えることができない、それより上にあること、もっと奥にあることに目が届かないということをいうのです。

 ニーチェの神は死んだという考え方以降、特にその様な風潮が世界を覆って、やがてその考え方はマルクス・レーニン主義、共産主義へと収斂されていきました。

 ことに共産主義は巧みに共産主義の本質を隠して、誠に耳障りのいい、ヒューマニズム、ヒューマニズムの精神ということで人々を籠絡して、今日その勢力を拡大し続けてきました。

■近代ヒューマニズムの超克は宗教でのみ可能

 ご承知のごとく、今日の学問体系は、この近代ヒューマニズムの産物です。目に見えるもの、人間の考えられること以外には思いいたすことができないというのが、その特徴と言えるでしょう。

 この近代ヒューマニズムを超克するという問題は、宗教によってしか解決できません。もちろん、私が申し上げる宗教というものはいささか趣を異にする宗教です。

 考えてみますと、昭和21年、天皇は自ら人間天皇として宣言されました。そして教育勅語も廃止され、結局、日本国民全体に宗教というものがなくなってしまったのです。それ以後、雨後の竹の子のごとくと表現されましたように、新興宗教が起こりました。

 しかし、日本の新興宗教のそれぞれは、みな「おかげ宗教」です。神の名前をもって、自分の病気を治したい、自分の幸せのために、経済力をつけるために、良いところに就職できるために、学校に入学できるために、そんなことでの新興宗教です。

 これは宗教というものではありません。突き詰めて言えば、仲良しクラブというようなものです。これらはビッグバン的な大きな歴史の大転換によって消え去っていく運命にあると私は思っています。

■真の宗教は神の心を知り万民の為に生きる

 本当に残るべき宗教とは何か。神の心を知り、その神のために万民のために、個人を犠牲にしても、家庭を犠牲にしても、国を犠牲にしても、世界の困難な問題に立ち向かって行こうという、それこそが本当の宗教です。

 この意味での宗教が日本にはないのです。そして日本人から本当の心の豊かさとか、思いやりの心、温かい心、清き心、直き心、明るき心が段々と失せてきたのです。

 そして、福田和也氏の言うように、幼稚なことしか考えない日本人、どうでもいいようなことしか考えない日本人になってしまいました。

 今世紀最大の科学者と言われるかのアインシュタイン博士が臨終の際に残した有名な言葉が残っております。

 「私は神の創造が知りたい。神の創造ということを知れば、それ以外のことはごくごく些細な事である」

 神の創造を知ることが最も大切なことだ。それ以外は大した問題ではないと、科学の大家と言われるアインシュタイン博士にして、この言葉を残しているのです。

 我々はそれ以下の立場で、どうでもいいような日常茶飯事のことばかりに心を囚われて、右往左往している情けない民族になってしまっているのです。

 また、20世紀最大の哲学者といわれるスペインのホセ・オルテガという人物がこう言っております。

 「人々よ、心の貴族たれ」と。

 これは彼の残している有名な言葉です。身はぼろを纏おうとも、貧しくとも、心は気高く、志の高い、気品のある、貴族のような心であってほしいと言うのです。

 この心根を日本民族は本当に身に付けるときがきているのではないでしょうか。そのために本源的な視点に立ち返って考えてみることが今こそ必要なのです。

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