思想新聞2000年10月15日号【視点論点】

宮永事件以来のスパイ事件の概要
軍事評論家 菊池謙治氏
萩崎繁博・三等海佐(38歳、防衛研究所研究員)は、9月7日19時頃、東京・浜松町のバーでロシア大使館付武官ビクトル・ボガチョンコフ海軍大佐と接触中、スパイ容疑で警視庁公安部の捜査官によって逮捕された。昭和55年1月の宮永事件以来、第二の防衛庁スパイ事件である。
この二人が知り合ったのは昨年9月、ロシア海軍の駆逐艦が横須賀に入港した際、日本側通訳として萩崎三佐が派遣された時に始まる。その後、ロシア側から萩崎三佐に「慰労したい」と申し入れがあり、この時ロシアへの関心、将来の希望、息子の病気等の家族関係が話題となり、ボガチョンコフ大佐と親しくなった。
実は、この状況はスパイ工作における「召募」の段階で、萩崎三佐はこの時点でスパイ候補者としてロシア側に登録されたと見てよい。要するに、本人の保全意識の欠如、不用心であり、自衛隊幹部として、あまりにも軽率であった。以後、今年8月までに毎月一回、都内の飲食店で十数回、ボガチョンコフ大佐と接触して資料を渡すに至った。
相互の連絡には電話は使用せず、接触時に次回の接触日時・場所(予備の日程を含む)を決め、やむを得ない場合は伝言サービスを使用する等、予備の手段も決めていた。これもスパイ工作の原則通りである。
また、萩崎三佐は資料を渡した後、五回にわたって息子の病気見舞い、さらに息子が亡くなった際には香典名目で十万円等、総額で58万円を受け取っている。だが、これも人情を絡めた工作員獲得のための常套手段であり、金銭受け取りは自らの弱点形成にほかならないのだ。
萩崎三佐は昭和61年に防衛大学卒業後、海上自衛隊配属となるが、防大での卒業論文のテーマは「ゴルシコフ(ソ連海軍元帥)とソ連海軍」で、早くからソ連・ロシアに関心を抱いていた。以後7年間、護衛官乗組み等の第一線勤務の後、平成6年に陸上自衛隊の調査学校語学課程(1年間・ロシア語)、同9年同校戦略情報課程(6カ月)、同10年防衛大学・総合安全保障研究課(修士課程)を修了後、防衛研究所第二研究部所属となり、ロシア問題を担当する情報官であった。軍事情報収集を任務とする情報官 ボガチョンコフ大佐(44)も萩崎三佐と同様、第一線勤務は北方艦隊に7年間だけであり、以後は情報官として平成2年から4年間、日本大使館付武官補佐官、その後いったん帰国して海軍省勤務の後、同9年から大使館付武官として再度来日した。
以上、二人とも互いに相手国の軍事情報収集を任務とする情報官だった。今回、ロシア側に流れた情報は「秘」区分指定が「戦術概説改定第三版」「将来の海上自衛隊通信のあり方」の2件のみで、他は萩崎三佐自身が防衛研究所でまとめた軍事論文、防大で使用する海上自衛隊用教本(中堅幹部対象)、防衛研究所の公開資料等の部外秘・取扱注意指定の資料が中心であった。
従って、重大な機密漏洩はなく、実害はなかったと見てよい。だが、根本的に重要な問題は萩崎三佐の行動が示した自衛隊幹部の、驚くべき保全意識の欠如である。しかも現在の日本にはスパイを取り締まり、その行為を罰する法律すらなく、スパイ活動に対して全く無防備であるという情けない実情である。国家機密情報流出の教訓 かつて昭和50年代後半、スパイ防止法制定の国民運動が盛んに展開されたが結局、政治家の無能・怠慢によって挫折した。加えてマスコミや一般国民の意識も低調で、国防という概念が育ちがたい状態がいまだに続いている。
中国の李鵬・全人代常務委員長が「日本? あんな国は20年もすれば消えている」と放言したのは首相当時の5年前であった。これが当たっているとすれば、日本の運命はあと15年しかない。今こそ政治家も国民も、真剣に現実を見つめる「真の勇気」を持つべきではないのか。


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