「犯罪」すらも正当化してしまうレトリック
思想新聞2002年2月1日 シリーズQ&A 共産主義は間違っている!!
「人権真理教」の国・ニッポン 3
「幼女姦者」の人権も認めよ?
Q 「人間性の解放の神話」ですか。なんとなくわかるようでわかりにくいですね。
A もう少し補足説明が必要ですね。先述の呉智英氏は、極論としつつも、同性愛者はともかく、「幼女姦者の人権」をすら議論されなければならないだろうと言っています。もちろん否定的な意味においてです。これは単に机上の空論、思考実験ではなくて、米国では実際に「全米幼女姦者権利擁護協会」なる団体が存在して、「異常だとか変態とか見なすのはけしからん、人権を認めよ」という運動がなされているということです。「幼女姦者」というと、日本語としてはあまり聞き慣れない言葉ですが、このような輩は日本ではもちろん、「淫行罪」で処罰されます。幼児の人権はどうなのかと言えば、「幼女がそれを《本当に望んでいないか》どうしてわかるのか」と反論される、つまり「本人の性的意識の解放」がなされていないから、決して人権侵害には当たらないというのです。
もはやここまでくると、正気の沙汰とは思えないですね。自らの性的倒錯を正当化するための詭弁に過ぎません。ちょうど先ごろ、新潟で少女を9年の間誘拐・監禁した事件の判決が出ました。その佐藤被告は、驚くべきことに、少女が自分に「好意を持ってくれている」と錯覚していました。
この佐藤被告への判決は、検察側の求刑15年に対し14年でした。誘拐略取・監禁への判決としては最も重いものですが、ただし監禁期間があまりに長期で、人格形成に重要な思春期を奪われた被害女性のことを考えると、「軽すぎる」とする見方も少なくありません。ある意味では殺されるよりもつらい「生き地獄」を味わったわけですから。弁護側は被告の精神鑑定を要求しましたが、鑑定結果は「責任能力は問える」ということで出された判決でした。
フェティシズムは現代の偶像崇拝
くだんの「幼女姦者」のレトリックも、佐藤被告の錯覚とそれほど隔たったところにあるわけではない、と言えるのではないでしょうか。つまり、単純に言うとエゴイズムということになるのでしょうが、哲学的には「独我論的世界観」と言えるでしょう。それはもちろん、ネガティブな意味においてです。言い換えるなら、「主観」というとき、「私の主観」以外に存在しない、ということであり、他者の主観・意思の存在(現象学的に言えば、「相互主観性」にあたります。もともと現象学は、心理学の手法から展開された哲学の潮流です)を認めない、ということになるのです。マルティン・ブーバーの言に従うなら、「《われ-なんじ》の世界観」ではなくて「《われ-それ》の世界観」にほかならない、ということになります。これは、「私」の意識以外に、世界は「モノ」から構成されている世界観です。この世界観によるなら、「愛」は「モノへの愛」、いわゆるフェティシズムしか成り立ちません。従ってそこでは神への愛、つまり宗教も成立不可能となります。古今東西に起こったおぞましい猟奇的事件も、「相互主観性」というものが決定的に欠落していると言えます。
実はここに、ユダヤ=キリスト教やイスラム教などが厳しく禁じてきた「偶像崇拝」の真意があるように思われるのです。「相互主観性の存在」、つまり「《われ-なんじ》の世界観」が失われた状態こそ、現代の「偶像崇拝」と言えるのではないでしょうか。先に八木秀次・高崎経済大助教授の指摘した「家族解体とアトム化」について言及しましたが、「人権擁護」の名の下に、どれほど無機的な「《われ-それ》の世界観」が世を覆ってきたでしょうか。


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