国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1898号 (令和8年5月1日)

File-89 「愛の権利」という実相

思想新聞2003年10月15日号 共産主義は間違っている!!

摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 43

浅薄な人権・生命尊重論を超克する「愛権」

家庭と神の問題に逢着

Q 「パトス」「心の問題」について批判的な吟味というと、やはり「愛」ということになるのでしょうか。

A そうですね。それも月並みな「愛」というのではいけません。例えば、「人権至上」的な観点がありますから、これを超克するものとしての「愛」、つまり「愛という権利」について考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 興味深いことに、本連合創設者であり、超宗教超国家平和協議会(IIPC)の提唱者である文鮮明・世界平和連合総裁は2001年に、人権よりもむしろ「愛の権利」を神聖視すべきである、と創唱されています。そしてこの「愛という権利」、つまり「愛権」は「心と体が一体化してこそ得られるのであり、個人から世界レベルまで行かなければならない」と説かれています。

 なぜ近代市民(民主主義)社会にとっては常識とも言える「人権」が、「愛の権利」にかなわないと言えるのでしょうか。一般的に「人権」と「生命尊重論」とをセットにして考えられますが、この生命尊重論の「生命」の大元となっているものこそ、(性愛をも含んだ)「愛」だから、と答えることができるでしょう。

 つまり、生命の起源が「愛」にあるから、生命(人権)よりも愛(愛権)が先立つ、ということができるわけです。巷間では生命尊重が叫ばれますが、その根拠・前提があまりにも薄弱なのです。「愛」という次元にまで深く深く踏み込んでいかない限り、「生命の尊厳」とは皮相的な薄っぺらで不安定な言明にすぎなくなるでしょう。

 生命尊重論の最大の難点は、生命の終焉、すなわち「死」によって、その尊厳性が「解消されてしまう」ということです。つまり「死後の世界は存在しない」→「宗教は無意味だ」という唯物論的な傾向を容易に醸成するのです。

 子供や配偶者など、自分にとって「特別の存在」であるならば、仮にその存在が亡くなったとしても、「愛」によって、「特別の存在」としてあり続けるのです。

 文総裁によれば、世の悲劇のほとんどは、実は人間存在の多くが、「愛の権利」をないがしろにされてこの世に生を受けてきた、というのです。宗教的に言えば「心と体がバラバラになった状態」=「堕落」という状態が連綿と続いてきたということになります。

 もっとも、そうした中にあっても、人間の歴史には「愛の権利」を大事にする、そうした思想が、宗教や文化・伝統などを通して継承されてきた、その事実を忘れてはならないでしょう。

 人権尊重の思想は「平等」を希求する「水平の原理」と言えます。「人並みの暮らし・幸福」と言う場合のそれです。

 しかし、「愛の権利」尊重の思想は「独自性」を希求する「垂直の原理」と言えるでしょう。親にとって子供が「特別な存在」、夫婦にとって配偶者が互いに「特別な存在」だ、ということになります。そうした「特別な存在」というのは、「死」によってすらもその関係を断ち切ることはできない、そのようなものだと言えるでしょう。

 では、「婚外」の異性関係や同性同士の「愛の権利」も認められるべきだ、という主張も当然出てくるでしょう。実際にそのような主張が昨今、社会的な物議をかもしています。しかし、これは「家庭」という観念と「神」という存在なしには説明も解決もできないと言えるかもしれません。実際、裁判などでは宗教的道徳的通念からすれば眉をひそめるような判例が多いのです。そうした流れの推進はまた、「家庭破壊」に直接間接に影響を与えることになるのです。

 これについては、本紙10月1日号の「視点論点」に掲載したウィルキンズ博士の見解(「自然的家庭の意義は繁殖可能性にある」とした)がまことに的を射たものであることがわかります。

 しかし、かつてマルクス以前にフォイエルバッハが陥ったように、いくら神や宗教を否定して、「人間愛」を説いたとしても、そこには歴史的宗教的文化的な背景に匹敵する秩序を保った共同体を生みだすだけの説得力のあるビジョンはありません。それこそ、滅びへの道があるだけ、と言えるでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました