思想新聞2000年8月15日号
シリーズQ&A 共産主義は間違っている!!
「国を売る」人々の「文革」の論理
「紅衛兵」化する児童生徒たち
Q
今国会で、東京・国立市の公立小学校の卒業式で、国旗掲揚を試みた校長が、児童に糾弾され、土下座まで強要された事件が質問として取り上げられるまでになりました。こうした動きは共産主義とは関わりがあるのでしょうか。
A
問題を起こした側は明確に共産主義イデオロギーをもってやっているわけではないかもしれませんが、埼玉県の所沢高校の卒業式ボイコット事件のように、PTAや教師の側で煽っている部分が相当大きいと言わざるをえません。
最近、渡部昇一・林道義・八木秀次の三氏が鼎談した『国を売る人びと』(PHP)という本で、八木・高崎経済大助教授が国立の事件を例に次のように語っています。
「教師と児童生徒は対等な関係である、それが理想的な関係だと戦後ずっとやってきたわけですね。教壇が教室から消えたのは象徴的ですけれど、最近では卒業式に学校の屋上に国旗を掲げた校長に土下座を要求する紅衛兵のような小学生まで出てきた。とにかく人間に上下の関係をつくってはいけないという迷妄、悪しき平等主義が、わが国からリーダー、エリートをなくし、まともな親を家庭から、まともな教師を学校からなくしてしまったわけです」と。
この国立市の事件の構図はまさに、「紅衛兵化する児童」そのものです。「紅衛兵」とはご存じのように、60年代末から70年代初めにかけて中国に吹き荒れた「文化大革命」で、あらゆる権威を徹底否定した毛沢東思想の先兵となった党員の子弟や学生などです。彼らは既存の地位ある人々を「走資派」として「自己批判」させて、ひどいときには「思想改造」させるため地方に「下放」させたりしました。

それは中国の社会的機能が完全にストップした悪夢のような時代でした。ユン・チァンが『ワイルドスワン』で「生きるも地獄、死ぬも地獄」と呼んだそのような状況をほうふつとさせるのが、校長を糾弾し「自己批判」を迫る児童の姿です。国立市と並んで公教育問題が突出している広島で昨年、県立世羅高校長が自殺するという事件がありました。これをきっかけとして国旗国歌法が成立したわけですが、結果的に「義務」視されていないことが明らかになりました。教師であれ児童生徒であれ父母であれ、日の丸・君が代に反対する向きというのは、ほぼ必ず「強制ですか」と言質を取ってから行う確信犯と言えるのです。
「ゴネ得」という言葉の通り、「事なかれ」の雰囲気・空気が世情に支配的な社会では、「ゴネられること」が最大の脅威なのです。もちろん、雪印事件のように「ゴネる」どころか万単位の被害者を出した例もありますが、稀代の「訴訟社会」と呼ばれる米国ですら、些事と思われることでも訴訟に持ち込まれるほど、「ゴネる」ことはもはや当たり前のように見なされています。
昔からシンパ層も含め左翼的活動家にとっては、「勝ち取ること」が「善」とされますから、ゴネて何かを勝ち取ったら「革命への一歩前進」ということになります。ですから、いま教育の現場に求められるのは、ゴネられたとしても毅然とした態度で対処し、冷静に判断し的確なリーダーシップを発揮できる教育者なのかもしれません。
例えば、近年とみに少年法改正の声が高まる中、結局改正まではこぎ着けませんでしたが、少年法で保護されるべきはずの未成年が、都合の悪いことを棚に上げて「自己決定」や「権利」などと主張するのは、どう考えても理不尽です。
八木氏は同書で「生徒の自主性尊重ということをすぐ日教組や全教は口にしますが、着席したまま国歌斉唱をしなかった生徒たちの意志が自主的であったかどうかはきわめて疑わしい。…そもそも卒業式や入学式で国旗・国歌に敬意を払わない教員たちの尊大な態度は何なのでしょうか。来賓や父母に対して失礼だし、それはイデオロギー以前の礼儀作法の問題です。…子供たちは教師のそうした姿勢を見ている」と、「学級崩壊」が起こるのも当然だとしています。
規律なりルールをともなった行事や儀式を学校でやろうとしても、素直に聞くわけがないではありませんか。学級崩壊など、必然的な現象でしょう」とも言っています。


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