思想新聞2004年2月15日号【憲法改正そのポイント】3
日本国憲法は自国の安全を守れないばかりか、国際貢献の足かせにもなっています。それが9条問題です。9条改正なくして21世紀の日本はないと言っても過言ではありません。
9条とはこうです。
「9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」
ここで問題になるのは①「戦争の放棄」の戦争はいかなる戦争を指しているのか、自衛戦争も含まれるのか②「戦力の不保持」の戦力には自衛力も含まれるのか③「交戦権は認めない」の交戦権とは何なのか、という三点に集約されます。
戦争放棄は侵略戦争のことだが
国際法と照らしあわせて9条を解釈すると「国権の発動による戦争」とは戦時国際法に沿った、いわゆる正式の戦争のこと、「武力による威嚇」や「武力の行使」とは戦争に至らない紛争のことを指します。9条はそのいずれをも「国際紛争を解決する手段」としては放棄すると言うのです。
ここで注意してほしいのは、この表現は9条によって初めて導入されたものではないということです。わが国はすでに1929年、「戦争放棄に関する条約」を締結しており、その第1条には「締結国は国際紛争解決のため戦争に訴えること非(あらざる)とし…国家の手段としての戦争を放棄することを各自の人民の名に置いて厳粛に宣言す」とあるのです。
ここで言う「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、1928年に戦争放棄を誓って結ばれたパリ不戦条約以来、「侵略戦争」と解釈されており、「自衛戦争」は含まれないとされています。憲法論議ではこのことをしっかりと心に留めておく必要があります。
ですから、国際法では9条1項の「戦争の放棄」とは「侵略戦争」のことであって「自衛戦争」は含まれないとするのが正しい見解となります。日本と同じ敗戦国のイタリア共和国憲法第11条も「国際紛争を解決する方法としては、戦争を否認し」とありますが、この戦争も「侵略戦争」を指していると解釈されており、日本のような軍隊違憲論争はまったく存在しません。
こうした国際法および国際社会の常識に基づいて最高裁は1959(昭和34)年12月、「9条1項で永久に放棄することを定めたのは、いわゆる侵略戦争である」との判決を下し、自衛の戦争の権利まで9条は放棄したわけではないと言明しているのです。
したがって、「戦力の不保持」の戦力には自衛力は含まれませんし、「交戦権は認めない」という交戦権も侵略戦争における交戦権と解釈するのが妥当ということになります。
しかし、こうした解釈は何とも分かりづらいというのが実感でしょう。9条を文字通りに読むのではなく、いちいち解釈を要するのですから、そこにはさまざま「誤解」や「主張」を生み出すことになるからです。
たとえば、9条を文字通りに読んで「いっさいの戦力を放棄している」として、自衛隊違憲論を主張する人々がいます。社民党や共産党がそうです(共産党は「プロレタリア国家」における自衛権は認めているが)。
意味が不明な交戦権の中身
もっとも複雑なのが「交戦権」の解釈です。9条1項で「国権の発動たる戦争」をすでに放棄しているのに、なぜ2項でさらに重ねて「国の交戦権」を認めないと言うのでしょうか。しかも1項では「国際紛争を解決する手段として」という条件付きであったにもかかわらず、2項ではもっと強く無条件で「交戦権」を禁止しています。このことが一層、解釈を難解なものにしています。
交戦権とは、交戦国同士がもっている各種の権利、たとえば捕虜となった場合、身体及び名誉を尊重される権利があるといった、これもまた国際法によって取り決められた諸権利です。にもかかわらず交戦権を認めないとなると、国としての扱いが受けられず、理不尽な扱いを受けても文句ひとつ言えず、惨劇を容認しかねません。
したがって自衛戦争が認められる以上、自衛戦争における交戦権もまた認められるのが筋ですが(一応、そう解釈していますが)、2項にはいきなり「国の交戦権は、これを認めない」とあるのですから、あらぬ誤解を生んでしまうわけです。
これが尾を引いてイラクへの自衛隊派遣でも武力行使ができないとか、有事立法は違憲だとか、お粗末な9条論議を招いているのです。自衛権とそのための軍事力の保持および戦闘行為の適法性を憲法に明記しておくことが必要になる所以です。


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