【思想新聞2004年4月1日号 ポスト・マルクスの群像6】
エンゲルス・4
エンゲルスとフロイトを結びつけたのは、いわゆる「自然科学的方法論」と言えましたが、具体的にモデル体系となったのは、ダーウィニズムつまり、進化論(自然淘汰説)でした。しかし実際のところ、科学的というよりは機械的唯物論こそがその本質にあるように見えます。
前回はエンゲルスとフロイトを結ぶ「共通項」が実は、ダーウィニズムにあったことにふれましたが、フロイトとマルクス主義との接点・関係についてもう少し述べてみましょう。
フロイトのマルクス主義理解は、「自然を支配する人間の力の進歩が、人間の社会関係に大きな影響を及ぼすというマルクス主義の認識、経済関係が上部構造を規定するというマルクスの認識を承認する」(『続・精神分析学入門』) としたように、社会科学として精神分析と同じ科学的世界観の範疇と期待を寄せました。
しかしフロイトは、人間の行動を決定する動機となる「本能」を無視するという点でマルクス主義を批判し、もしも社会科学的な分析の範囲を超え、一つのイデオロギーや世界観たろうとすれば、既成の宗教的世界観に代わる新たな集団幻想と化すだろうとし「マルクス主義は、自己が科学の立場に立って一掃したはずの、観念論的体系や幻想と同じものになってしまった。つまりそれは証明しがたい幻想を発達させ、ロシアに見られるような批判や思考の禁止を引き起こした」と述べました。
熱狂的なマルクス主義者は人々をその幻想により煽動し、狂信に陥れたと断じ、フロイトは1930年代に 「マルクス主義の実験が時期尚早であり、もっと新しい諸発見が人類の自然力の支配を高め、ひいては我々の欲求満足を容易にしない限り、成功の見込みはない」と予言しました。
「革命の主体となる人間における個の確立を説いたフロイト思想は、文化革命と自己変革を視野に入れたマルクス主義者、トロツキストたちに多大の共感を呼び、さらに1970年代のニューレフト(新左翼)運動で再び脚光を浴びる時代を迎えた」と小此木啓吾・東京国際大教授は70年代のマルクス主義とフロイト思想の結びつきを指摘しています(『フロイト思想のキーワード』)。このように、フロイト精神分析学の立場からも、マルクス主義へのフロイトの影響(補完する思想として)は明言されているのです。
◇
さて、エンゲルスの稿を締めくくる上で、再び『家族・私有財産・国家の起源』の記述に戻りましょう。
一夫一婦制度とは無論、一人の男性と一人の女性というカップルが夫婦となり家族を営む制度です。それが至極健全な社会通念・倫理観として現存することは、そこに三角関係のような事態が生じれば、「不倫」(古い言葉では「姦通」)ということになることからも明白です。この時、「不倫」された立場では当然ながら「嫉妬」の情念にかられるのが普通でしょう。
しかしエンゲルスは、「資料」(別掲)にあるように原始社会では「嫉妬は克服され」て「集団婚」が成立したというのです。
エンゲルスがいかに人間の愛や情念を軽視し、男女の関係を「性愛」「性交」といった即物的次元に還元してしまっているかが窺えます。その稚拙さを批判・指摘しているのが、「参考資料」(別掲)の吉本隆明氏の『共同幻想論』の「母制論」の記述です。
エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』ばかりでなく、柳田国男の『遠野物語』やフロイトを援用した吉本氏の同書は、安保世代や全共闘世代に多大な影響を与えた「国家解体論」としての性格を持っています。簡単に言えば、夫婦や家族、そして国家という観念は幻想だという考え方で、マルクス主義的に言えば「上部構造」にあたるものです。それらは「幻想」つまり、脆弱で不安定で曖昧なものだ、というニュアンスを伴うわけです。これに言及するのはまた別の機会にして、ここで注目すべきは、マルクスやフロイトの思想を日本的な文脈で敷衍することを企図した吉本氏ですら、辛辣な批判を加えているという点にあります。「人間は歴史のどの時期も嫉妬の感情から解放されたことはなかった」というその記述には、生物科学的視点と異なる文学歴史的なアプローチだという点はあるにせよ、どう見てもエンゲルスの人間理解には疑問を抱かざるをえません。
◇
ところで、階級社会で成立した一夫一婦制の「ブルジョア的」結婚は、社会主義革命によってどうなるのでしょう。エンゲルスは「[一夫一婦制は]消滅するどころか、かえって初めて完全に実現される」といい、それは「相互の愛以外にどんな動機も残らない」婚姻、つまり愛のみに基づく婚姻としました。また日本共産党も一九四六年の「日本人民共和国憲法草案」で「婚姻は両性の合意によってのみ成立し、かつ男女が平等の権利をもつ完全な一夫一婦制を基本とし、純潔な家族生活の建設を目的とする」としています。共産主義の提示する本来の結婚観は、真に夫婦の愛に基づいた家庭、純潔なる家庭の建設をめざすものというのです。しかし、果たしてそんな理想がマルクス主義で実現するのでしょうか。「富が溢れ自由な階級なき社会」をめざした社会主義革命が「富の枯渇し、自由が抑圧された新しい階級社会」を生みだしたのが現実でした。結婚と家族観においても、その理想と逆の結果をもたらし、ソ連社会が、米社会と同様フリーセックスの蔓延と家庭崩壊が社会現象になりました。かつての連合赤軍事件で、出産・育児は「反革命」と烙印を押され、女性兵士が処刑されたのが現実なのです。
エンゲルスの主張も日本共産党「草案」も、根のない木であり、画餅にすぎません。原始共産主義社会は無規律性交のフリーセックス社会だったとの立場、そして一夫一婦制が経済的な搾取体制として成立したという立場からは、真実の愛による一夫一婦制度が成立するはずがありません。エンゲルスは、フォイエルバッハが唯物論の立場から人間愛を説いたのに対し、「彼は下半身は唯物論者で上半身は観念論者であった」と批判しましたが、それと同じことがエンゲルスにも言えるのです。すなわち「エンゲルスは下半身ではフリーセックス論者であるが、上半身では一夫一婦制論者である」と。
ですから前回、「参考資料と解説」欄で採り上げた、マルクス主義的戸籍解体論者である佐藤文明氏の記述にこそ、マルクス主義者の紛れもない「本音」が露わとなっているのです。
故李相軒・統一思想研究院院長は「人間の始元が無規律性交の社会であるとするならば、原始共産主義社会の高次な形態であるという共産主義社会はより洗練されたフリーセックス社会になるというのが、必然的な結論ではないか。唯物弁証法の『否定の否定の法則』によれば、古い最初の段階(原始共産主義社会)が否定されて、新しい第二の段階(階級社会)になり、それがさらに否定されて第三の段階(共産主義社会)になるが、その時、第三の段階は、高次元的に、最初の段階に復帰するからである。性解放論者たちが、モーガン=エンゲルスの主張を受け容れながら性の解放を叫んでいるが、その結論はともあれ、彼らは理論的に首尾一貫しているのである。真の夫婦愛に基づいた一夫一婦制の家庭をめざすのであれば、それにふさわしい愛の思想が提示されなくてはならないであろう」(『頭翼思想時代の到来』)と述べているように、マルクス主義はもとよりフロイト主義・ダーウィニズムも同じく決定的に欠落しているのが、「愛の思想」にほかならないのです。
資 料
▼ 原始集団婚の存在と「嫉妬の克服」
「動物が人間に進化する過程において行われた、かような比較的大きくかつ継続する集団の形成にとっては、成長した雄の相互的寛容、嫉妬からの解放が第一条件であった。そして我々は、史上で確実に証明することができ、かつ今日諸処で研究できるところの最も原始的な家族形態として、実際に何を見出すか。それは集団婚である。即ち、男の全集団と女の全集団とが互いに所有し合い、殆ど嫉妬の余地を残していない状態である。そしてその後の発展段階で多夫一妻制という例外的形態が見受けられるが、これこそあらゆる嫉妬の感情を打破したものであり、動物には知られなかったものである」
(F・エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)
■参 考 資 料■
【〈嫉妬の克服〉論の欺瞞】
「この論証(「資料」のエンゲルスの引用文)は了解に苦しむところがある。人間の男・女の間の〈性〉的な総関係では事情は全く逆でなければならない。人間が〈性〉的な関係について〈嫉妬〉感情から全く解放される心の状態を想定できるとすれば、男・女が全く制約なしに〈性〉的な自然行為〈性交〉を体験として慣習化しえたときである。言いかえれば、エンゲルスの言う集団婚の存在は、結果ではなくてむしろ逆に人間が〈嫉妬〉から解放されるための前提として考えなければならない。つまり現実が先に、感情は後にというわけだ。ところが人間には、人類史のどの時期を取ってきてもエンゲルスの言うどの場合もあり得なかった。人間は歴史的などの時期でも、かつて男・女として〈嫉妬〉感情から全く解放されたことなどはなかったのである。せいぜいうぶな男(雄)の方が、さんざん女遊びをやっている遊冶郎より異性に対する〈嫉妬〉感情は大きいという事実が眼の前に見られるだけである。
この問題はエンゲルスの言うようなものにはならない。人間が動物と同じような〈性〉的な自然行為を〈対なる幻想〉として心的に疎外し、自立させて初めて、動物とは違った共同性〈家族〉を獲得したのである。人間にとって〈性〉の問題が幻想の領域に滲入したとき、男・女の間の〈性〉的な自然行為をたとえ矛盾しても、また桎梏や制約になっても、不可避的に男女の〈対なる幻想〉が現実にとれるすべての態様が現れるようになった。そこでは男・女が互いに〈嫉妬〉しようが〈許容〉しようが、ある意味では個々の男・女の〈自由〉に委ねられるようになった。
ここに原始集団婚の存在を例証しようとするどんな企てにも、眉に唾してかからねばならない本当の理由が隠されている。……問題は原始的なある時期に、人間が集団婚を結んだか一夫一婦婚をとったかにあるのではない。婚姻制の自然な基盤の上には、常に〈対なる幻想〉の領域が存在するということを明確に認めるかどうかにあるのだ。
もし婚姻制の基礎が男・女の自然的な〈性〉行為だけにあるというなら、一対の男・女の性交にとって決して好都合でないばかりか、混乱を招くだけの親族体系をつくりあげたり、親族名称をつくりあげたりした未開の人類の集団は全く不可解なことをやったことになるのだ」(「母制論」~吉本隆明『共同幻想論』角川文庫)


コメント