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~もう一つの共産主義を検証する~ 亡命で自由主義の底流と邂逅

【思想新聞2004年5月1日号】ポストマルクスの群像 8

修正主義論争・2

 エンゲルスの死後、早々と起こったドイツ社会民主党の内紛。それは、既に結党時からはらんでいたものと言えました。ベルンシュタインは結局、この論争の後、「マルクス主義」という思想的樹木から「外れ」、「アウトサイダー」となることを余儀なくされますが、マルクス=エンゲルスの「お膝元」であるドイツの状況に戻りましょう。

 今回は、この論争の「主役」たるベルンシュタインについてみてみましょう。
 ベルンシュタインは、前回述べたように、実質的かつ有力なエンゲルスの後継者の一人であり、機関誌「社会民主(ゾツィアル・デモクラート)」の編集の中心メンバーでした。
 ベルンシュタインはベルリンで機関車運転手の子に生まれ、1872年にベーベルやW・リープクネヒトらの指導する社会民主党アイゼナハ派に入党しました。当時、銀行員だった彼が、不正が横行する取引所の腐敗ぶりに幻滅したからでした。

ドイツ社会民主党の来歴

 ここで少し、ドイツ社会民主党の歴史について簡単に触れておきましょう。時はマルクス生前の時代に戻ります。
 ドイツにおけるマルクス=エンゲルス思想の最初の共鳴者は、フェルディナント・ラサール(1825~64)でした。彼は「共産党宣言」の出された48年にマルクスの影響を受け社会民主主義を奉じ、その後、63年に「全ドイツ労働者協会」を設立(これがドイツ社民党の最初の前身的組織とされます)。1864年秋、マルクスらはロンドンで「国際労働者協会」つまり「第1インターナショナル」を創設、その直前にラサールは急死していました。ラサールはマルクスの影響で社会主義者になるものの、彼の考え方は、「革命」よりも「社会改良」を重視しました。労働運動を担う社会民主主義者たちは、社会的地位の向上がなによりも重要なことだと考えたからです。だから国家が社会主義的政策を採用すれば、評価できるとしました(国家社会主義)。こうした考えはラサールの死後も根強く残り、国家社会主義的な「ラサール派」を形成することになります。
 一方、マルクスにとっては、「国家はあくまで支配階級の道具にすぎない」と見ます。仮に国家が社会主義的政策を採用しても、それは労働者階級を懐柔するための策にほかなりません。このマルクスの解釈をそのまま踏襲したのが、アウグスト・ベーベル、それにヴィルヘルム・リープクネヒト(1826~1900)らでした。彼らは69年、マルクス主義に則る社会民主労働党を結成しました(アイゼナハ派)。ベルンシュタインは、このアイゼナハ派に属することになります。
 このように、ラサール派、アイゼナハ派の両派の考えは、根幹において相容れないものであっても、国家が労働者の言い分に耳を傾けない時代にあっては、両者は同じ「社会民主主義者」として共闘できたわけです。
 ところが、普仏戦争に勝利したプロイセンを中心に1871年ドイツ帝国が成立し、愛国的ムードを背景に宰相ビスマルクがアメとムチを使い分ける巧妙な政策に出て、ラサール派ら国家に期待感を持つ社会改良主義者を懐柔し党の分断を引き出す一方で、社会主義者鎮圧法(例外法)を成立させ、社民党はドイツ国内で表だった政治活動が困難になりました(施行=1878~90)。
 このような状況から、ラサール派もアイゼナハ派も分裂している状況でなくなり、75年に両派はドイツ中部ゴータに集まり、ついに合同。ここで採択されたのが「ゴータ綱領」でしたが、この綱領はラサール派の影響がきわめて強く、国家社会主義的色彩が濃かったのです。元老格のマルクスは綱領に激怒し、『ゴータ綱領批判』を書きあげます。以上の対立的な二つの考え方がドイツ社会民主党の底辺には流れていたのです。なお、こうして軌道修正されたアイゼナハ派は、マルクスの死後1891年の「エルフルト綱領」で主導権を握り、文字通り「正統マルクス主義」を打ち出すことになります。

「転向」をめぐる事情と背景

 この社会主義鎮圧法で国外生活を余儀なくされたベルンシュタインは、スイス・チューリッヒなどに移り住み、ロンドンのエンゲルスと緊密に連絡を取り合いながら、機関誌の編集に携わり、この頃のベルンシュタインは誰の目にもエンゲルスの意向に忠実な「急進派」の急先鋒として映りました。亀嶋庸一・成蹊大教授が、「ベルンシュタインの急進的立場は、ビスマルクによる社会主義運動弾圧と資本主義早期崩壊への期待とを背景としていた」(『ベルンシュタイン 亡命と世紀末の思想』)というように、19世紀の最後の四半世紀における世界的大不況に見舞われていた社会的背景がマルクスの理論の正しさと資本主義の早期崩壊を実証しているかのように見なしていたようです。
 しかしそうした中にあっても、「マルクス主義正統派」の人々とは独自なものであった点は、革命をめざす「セクト集団」から「議会主義政党」への脱皮を見ていたということです(1884年の帝国議会選挙において、ドイツ社民党は議席を倍増させました。このような事実から、先回掲げたエンゲルスの「政治的遺言」がなされたのです)。
 そして、こうした「独自路線」をさらに進展させ、ついには「マルクス批判」へと至る劇的な「転向」を果たすことになるのは、まさに「亡命生活」によってでした。
 チューリッヒ時代にベルンシュタインが得た「自由主義の発見」について、後の「英国体験」とはまた違った意味において独自のものがあったとして、先の亀嶋教授は前掲書において、「彼がスイスにおいてドイツとはおよそ異なった『自由主義』を発見したことは恐らく、チューリッヒを離れてすぐに展開されることになった、議会主義あるいは『自由主義』政党との選挙協力をめぐる彼の政策的提言を支える確信の一つとなった」と記しています。
 ベルンシュタインは新カント派社会主義者F・A・ランゲに関する当時の論文で、ドイツの自由主義とは異なる「力強い市民民主主義」に遭遇した、と述べていますが、その「体験」はそのまま彼自身に当てはまるようです(『自伝』参照)。
 1888年、ベルンシュタインはチューリッヒから今度はロンドンに亡命先を移すことになります。
「参考文献」の最後に掲げた主著『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』の記述は大変有名なもので、英国でのフェビアン協会との関係とその影響が多分に指摘されるところです。
 確かにそれは否定できないと言えますが、実はもっと深いところにベルンシュタインの「転向」の動機があったことが指摘できるのです。それは、本論稿全般にわたる問題とも関わりますが、英国流議会制民主主義を生み出した革命史の背景に、実は宗教の在り方が強く関わっていることを、マックス・ウェーバー同様に看破していた、という点にあります。

■参 考 資 料■

【ベルンシュタイン――― 発言の変遷】

●国家社会主義への批判
「……ドイツにはラサールの煽動のために我々の陣営内に極端な国家崇拝がさまよっているので、これらの分子(穏健派)が恣意的で全く非社会主義的な計画に陥る危険が常にあるのです。私が思いますに、我々の積極的活動、とりわけ社会改良への我々の参与は……今そうすることによって経済発展の進行が阻まれない程度にしか進めるべきではないのです。労働者の明白な階級利害の立場を別にするならば、これこそが我々にとっての基準となるべきでしょう」(エンゲルス宛の書簡)

●社会的背景と資本主義崩壊への期待
「ドイツにおける実業の悪化は、近い将来において実現するであろう経済的に大崩壊を必然的にもたらし、その政治的反作用は恐らく大衆の革命的昂揚を喚起するであろうという、ベーベルを強く支配していた見解を当時私も共有しており、それゆえこうした崩壊への展望に沿った政策を唱導し擁護したのであった」

●チューリッヒ亡命
「ここチューリッヒで私は、ドイツとは本質的に異なる政治的発展と、それに応じて様々な点で異なる国民精神をもった国を知ることができた」(『自伝』)

●『社会主義の諸前提と社会
 民主主義の任務』より
「社会民主党が事実上時代遅れになっている空文句から自らを解放し、党が今日実際にある姿、すなわち民主主義的・社会主義的改良政党らしく見えるようにする勇気を持つべきである」

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