思想新聞2001年5月15日号
実録・日本共産党 22 その恐るべき素顔と歴史を探る
共産党の1950年代の武装闘争路線の中で党内のスパイとの疑念に駆られた「リンチ査問」は昭和から平成にかけて党の最高幹部であった不破哲三氏ですらその嫌疑がかけられていた。
東大全学連細胞を舞台にリンチ査問
共産党が武装闘争に走り、党内で分裂・構想を続けていた1950年代初め(昭和25~28年に、国際派の中の「宮本派」(宮本顕治議長)においても、凄まじいリンチ・査問事件が起こっています。
この宮本派とすなわち昭和から平成さらには令和へとつながる「宮本綱領」路線を採っている現在の日本共産党に他なりません。共産党はこの当時の武装闘争やリンチについて、それは分派の一部の跳ね上がり分子による行為だとして自分たちは無関係だとうそぶいています。ところが、宮本はにもリンチ事件があったのです。
その舞台は宮本に直結する東大および全学連細胞(支部)です。リンチを加えたのは当時の全学連委員長・武井昭夫(後に文芸評論家)力石定一(後に法政大学教授)、安藤仁兵衛(後に現代の理論社主宰)らで、被害者は不破哲三(後に委員長から議長、現名誉役員)、戸塚秀雄、高沢寅男(後に社会党代議士)らです査問は東大細胞のアジトで行われました。その様子を加害者である安藤自身が次のように証言しています。
「狭い空間になった部屋の壁を背にして不破が直立不動で立たされていた。尋問は武井がやっていた。すでに武井の口の利き方は同志でもなければ対等でも普通でもなかった。不破は答え方も目上の者に対するそれになっていた。突如武井の手が不破の顔面に飛び、殴り飛ばされた不破のメガネがコンクリートの床を音を立てて滑った。ワアーッと恐怖と驚愕が私の全身を硬直させた――
小便がもれるほどの衝撃。『貴様』武井は殴打しながら不破をなじった『もう証拠は上がっている。早いところ白状しろ』武井の勢いはすさまじかった。不破は真っ青になって否定し続けた『知りません』『わかりません』
冷え込んでいた空から雪が降り始めて夜になった。雪は際限もなく降り続いて大雪となり、その雪の中で皆は徹夜で査問を続行した。戸塚と不破はひとりずつ壁際に立たされ、査問するメンバーは交代であった。戸塚と不破の顔が変形してきたが手は緩められるどころか激しくなった(『戦後日本共産党私記』現代の理論社)
こうした査問の「手本」とされたのが戦前の宮本元議長の手によるリンチ事件です。安藤氏は東大細胞の査問は宮本派中央の直接指示によるものだとし、「『スパイは殺してもいい』って指示がきた。ぼくは上から指示した幹部の名前を覚えています。耳朶たぶにはっきり残っています」と述べています(『朝日ジャーナル』1976年2月20日号)
さてこの幹部とは一体誰なのでしょうか。宮本自身だったのでしょうか。
国際派の幹部で元中央委員の亀山幸三は次のように述べています。
「査問の最中に一人の連絡員が宮本、藤原、原田長司らの宮本派指導部に査問方法について指導を受けに行ったところ、さすがに宮本は積極的に発言しなかったが原田長司は『もっとなぐれ、なぐるだけならいい』と答えたそうである。宮本は最高指導者として同席しておりながら、原田の指示をとどめはしなかった。査問方法についての無言の証人と見るべきだろう」(『代々木は歴史を偽造する』経済往来社)
幸い不破哲三氏は顔が変形する程度のリンチで済み、結局このスパイ査問事件はうやむやに終わりました。生き残った不破がのちに共産党のトップに座り加害者だった武井や安藤らが共産党から離れることになったのはなんとも皮肉です。
戦前と同じコースをたどった共産党
高知聡著『日本共産党粛清史』(月刊ペン社)によれば、かつて東大学生新聞には次のような無署名の詩が掲載されたといいます。
「日本共産党よ
死者の数を調査せよ
そして共同墓地に手あつく葬れ
政治のことはしばらくオアズケでもよい
死者の数を調査せよ
共同墓地に手あつく葬れ
中央委員よ地区常任よ
自らクワをもって土を起こせ
穴を掘れ
墓標を立てよ
武装闘争→挫折→リンチ査問。はからずも戦前と同じコースを歩んだ共産党ですが、後に連合赤軍も歩むことになります。
