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良心を育てる教育を 魂を大切にする社会へ

思想新聞2002年5月15日【視点論点】

常磐大学教授
鈴木 博雄 氏

 アフガン復興会議のNGOの出席問題に端を発した外相辞任劇や、雪印食品が牛肉のラベルを付け替え国の補助金を詐取した事件、また国会議員元秘書の市の公共工事の受注をめぐる贈収賄事件など日本人のモラルが問われる事件が相次いだ。これでは欧米人にとって日本は何とも理解しがたい国に映るのではないか。
 民主主義を説くのに、「神の前の平等」という言い方がある。しかし、同時に民主主義社会が「神の前の誓い」の上に成り立っていることを説く人は少ない。周知のように米国では、大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓する。国民の前で神に誓うことが国民に約束するよりもっと厳粛な誓いとされるからだ。同様に教会で結婚式を挙げるのも、「神により結ばれた二人が人間の勝手で離婚することは許されない」というキリスト教社会の戒律に由来しているが、日本では単なるファッションになってしまっている。一言でいえば、日本の民主主義は最初から神なし民主主義だと深く心に留め、これに対処する国民道徳を確立しない限り、問題は解決しないのだ。
 戦後、日本は米国の民主主義を社会全般にわたり受け入れ模倣してきたが、その社会構造の筋金となるモラルだけは欠落したままで来た。日本は公人の公言すら“嘘も方便”としてまかり通る社会だから、透明性を何より優先する欧米の民主主義的政治風土とはまったく違うのだ。
 こう考えると、この日本のモラル改革は構造改革より遙かに困難な事業だ。これを一挙に達成する妙案はない。とどのつまりは根気よく、国民一人ひとりを改造し、幼少の頃から自分の魂を大切にする人になるよう育てることである。
 人間は誰もが心の内に良心の種子を蔵し、それが歪められることなく育つことが生涯にわたる人格形成の基礎となる。生活の中で育った善きものを喜び、悪しきものを嫌う心こそ、その人の品性の核心だ。
 多くの子どもを見てきた経験から言うと、明らかに嘘と分かることを平気で言う子どもが時々いた。注意して観察すると、その子は嘘をつくことが悪いとは思わない。そこで、その子の家庭を見ると、そこでは嘘をつくことが利口な生き方になっていた。
 そんな家庭生活の中では、持って生まれた良心の種子は若芽のうちにしぼんでしまう。そこで育った子は長じて恥じることを知らぬ厚顔無恥の人となる。だから親は子どもに対し物事の善悪を事に触れ時に応じて教える努力を惜しんではならない。それも一番大切なのは、言葉だけでなく身をもって示すことだ。
 しかし、親も子どもの模範になれるほど立派ではない。親子で自らの良心に恥じないよう毎日一度は神仏の前で自己自身の反省とわが子の魂の健やかな成長を願い祈る習慣を身につけたいもの。この意味で、善き家庭生活こそ最も望ましい道徳教育の場なのだ。
 狂瀾怒涛の時代とされる思春期は、他から与えられてきた価値観を一度疑って、改めて自分の手で自らの生き方を選び取る時期。その際、選び取る道は道徳的に正しくなければならないが、それを導くのは親や教師の言葉ではなく、彼の内なる良心なのである。
 それを聖書では「汝の若き日に汝の神を覚えよ」と教える。青少年の教育は、この“自分探しの旅”を励まし、正しい選択がなされるように導くことにある。教える者や交わる者との人格的交流によって、青少年の純なる魂が磨かれるのだ。家庭や学校はそうした人的環境づくりにもっと努力すべきだ。
 青少年の精神の退廃を嘆く大人は少なくないが、それを自らの人格的感化力の不足と反省し、日夜自らの行いを正す努力をする人は少ない。学校教育も教師の資格が教職単位を集めただけで取れ、学校長の人事権が事なかれ主義の官僚に握られている実情では、青少年の良心の教育は難しいと思わざるを得ない。
 汚れなき魂で社会に出た青少年が、“許される嘘”もあるとする社会の本音に接し大きく動揺するのは当然である。昔は軍隊で「一、軍人は要領を本分とすべし」と叩き込まれた。個人の良心に捕われず、組織の掟に黙って順応せよというわけだ。この社会的悪習は、外務省や雪印だけでなく、至るところで公然と横行する。それが新入社員への裏の教育だったりもする。
 悪しき社会的風土を一掃する道徳的浄化運動が急務である。これまでも偉大な先人たちがこうした趣旨の社会浄化運動を行ってきたし、これを経営倫理の課題として真摯に取り組んだ経営者も少なくなかった。
 国民すべて声を挙げ周辺のモラルの変革から始め、個人の良心を曲げずに生きて行ける社会の実現を目指したいものだ。(協力=世界思想、文責=編集部)

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