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File-62 脱宗教による素朴な人権信仰を演出した宮沢憲法学

アレントは批判的に分析

思想新聞2002年8月15日号 共産主義は間違っている!!

摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン ・・ 16

ロールズは「人権」を解体

Q 「国家主権」と「国民主権」との関係についてはなるほどと思わされました。そしてマルクスにおいては、「共同体から切り離された個人の権利」を問題視することによって逆に、「共同体への奉仕」を強調しているというわけですね。では今日の「人権思想」とマルクス主義というのは正反対の関係になるわけですか?

革命と人権とに横たわる「矛盾」

A マルクスの批判は的を射ていますが、先に言及したシェイエスのような「革命と人権とに横たわる矛盾」を解決しているわけではありません。
 おもしろいことに、マルクスは「人間の本性は利己的である」と認めているわけですね。そうした分析から「労働者の天国」が招来されるとするのは無理があるような気がします。旧ソ連も硬直化した体制から経済が破綻して、「帝国」そのものが崩壊した。前も言ったように北朝鮮などでは、「人権」という言葉はあってなきが如くで、全く意味をなしません。
 ところで全体主義の分析についてはハンナ・アレントの『全体主義の起源』が詳しいですが、彼女は「政治上の近代は18世紀末に起こった二つの大革命、すなわちアメリカ独立革命とフランス革命による《人権宣言》をもって始まる」としてその意義を次のように言っています。
「人権宣言の意味するところは、何が正であり何が不正であるかの基準を与えるのは、今後は人間それ自体であって、神の戒律でも自然法でも伝統によって聖化された過去の慣習や道徳でもない、ということ以上でも以下でもない。18世紀の言葉で宣言が表明しているのは、各国人民はあらゆる社会的、宗教的、歴史的権威の貢献から自己を解放したこと、人類は《教育》の段階を終えて独り立ちできるまでに成長したということだった」(『全体主義の起源』)
 ここから、「人権宣言を前提とする、それ自体が価値の基準たる《人間》とは《一切の権威と条件から解放された完全に孤立した存在として自己を確立し、この存在は自らの尊厳、新しい人間の尊厳を、他のより高い、より包括的な秩序とは無関係に自分自身のうちに見出す存在》であると述べている。アレントもまた《人権》が想定している《人間》とは自らを超越する如何なる存在ももたない、自分の中に正邪の判断基準がある非常に高みに立った存在だと指摘している」と八木秀次・高崎経済大助教授が解説しています。

徹底的に世俗化した人権の根拠

 さて八木氏は「人権」を批判的に分析したマルクスやアレントと、戦後日本の「肯定的」状況に対比させます。
「わが国の戦後の憲法学をリードしてきた宮沢俊義は《人権》を…肯定的に理解し、《今日多くの国では、人権を承認する根拠として、もはや特に神や、自然法を持ち出す必要はなく、『人間性』とか『人間の尊厳』とかによってそれを根拠づけることで十分だと考えている》、人権は《本質的には宗教を離れて成立するものであり、また、宗教に関わりなく、根拠づけられるものである》と述べている。つまり徹底的に世俗化され、超越的原理を想定しない《人間がただ人間であるということのみに基づいて》人間は尊厳性を有すると理解し、そういう『人間』が有する権利を『人権』というのだと肯定的に理解するのである。しかし宮沢俊義が肯定的に理解したような『人権』はもはや哲学的な意義づけが不可能であり、その立論の根拠も希薄である」
 これはまさに現在の護憲派憲法解釈を頂点とするインテリ層の状況を見事に言い当てた部分です。さらに米国の政治哲学者ジョン・ロールズの
「人権は人間の本性に関する何か特定の包括的な道徳上の教説や哲学の構想には依拠しない。人間は一人一人が道徳的人格であり等しい価値を持つとか、人間にはある特別な道徳的ないし知的な能力が備わっているために人権があるといった考えに頼らないことだ」(『人権について』)という指摘を紹介しています。
 これはつまり、宮沢俊義は「脱宗教」こそが人権の普遍性を保証すると見ましたが、ロールズにとってもはやそれも「幻想」にすぎず、「人権」の意味を解体したと言えるわけです。

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