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File-83 「性的自己決定権」の隠された本質

思想新聞2003年7月15日号 共産主義は間違っている!!

摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 37

「愛」を徹底的に殲滅してきた現代思想

ニセモノの生命尊重論

Q 先の「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」問題についてもう少し掘り下げて説明してほしいのですが。
 
 「性と生殖に関する健康と権利」と訳されるこの言葉は、しばしば「性の自己決定権」とも呼ばれたりします。「産む産まないを決める権利」は産む当事者である女性にあるというのです。しかし、あえてこうしたことを主張する背景に、「産む」という選択は「社会的圧力」(バイアス=負荷)によるところが大きい、とする暗黙の了解があります。
 ですから逆に言えば「産まない」ことを選択する方が「社会的圧力」に屈しない、解放されている、という視点になってしまうのです。こうなると、「妊娠中絶」は「勇気ある行為」であり、不倫・離婚なども、社会規範に束縛されない、「進歩的」かつ「立派な行為」となってしまう。
 倫理・道徳を主張する人間は、「進歩」への流れを押しとどめ、悪夢を蘇らすとんでもない「反動主義者」という烙印を押されてしまう。その核となるのはほかならぬ「宗教」だ、というわけです。
 フロイト精神分析学の象徴は「エディプス・コンプレックス」。彼はあらゆる人間関係を「性現象」として捉えました。子は母と一体感が強く、父とは母をめぐって(擬似的な)「争奪戦」を繰り広げることになるわけです。だから伝統的家族制、父親を中心とした家父長制度の下では、「近親相姦」などのタブーができたというのです。こうした家庭内での親子の闘争は、マルクスの唯物弁証法にきわめて近い考え方です(ただしフロイト自身は、本能的自己であるエスを抑制する働き、つまり良心としての「超自我」が父に由来する規範にあると考えた)。
 したがって家父長制度の「支配」から脱し徹底的に反抗する。それを突き詰めていくと、一切の「タブー」から「フリー」でなければならない、ということになるのです。
 ですからいかなる「性的嗜好」も、「病的」なものはなく、あくまで「嗜好」にすぎない。だからその「嗜好」を認めよ、ということになります。
 かくて、ウィルヘルム・ライヒやヘルベルト・マルクーゼの主張した「フリーセックス」時代が到来することになりました。そして構造主義者ミシェル・フーコーに至っては、「狂気」こそ「理性」を超えることができるとすら考えました。
 ニーチェが『ツァラトゥストラ』やで「善悪の基準はつまるところ好みの問題に行き着く」、としたのは、まさにこうしたところにあります。
 しかし、こうした思想が「ニセモノ」である証拠は、根源的な生命論とは一切結びつかないということです。今日、あらゆる機会で、あらゆる場所において「生命の尊厳」が説かれます。国連憲章などにおいても。
 ところが、こうした「性解放」の理念からは「生命の尊厳」はどうしても生じません。せいぜいが「生への盲目的意志」を主張したショーペンハウエル的なペシミズム(厭世主義)に到達するのが関の山でしょう。それは人生に懐疑を持ち込み「人生に意味はない」と自殺者をさらに多く生み出す風潮をつくるだけでしょう。
「愛の不在」――実のところそれが、こうした風潮をつくり煽ってきた思想の「真の狙い」と言えるのです。「愛」と「性」を切り離し、「愛」と「生命」を切り離した、言い換えるなら、「愛」をそれぞれ後者に「還元」することによって愛を「亡き者」に仕立て上げることになったのです。「愛」が完全に疎外されてしまったわけです。特に社会科学からは、「最も非学問的なファクター」と見なされて抹殺されました。
 愛とは本来、調和と秩序を有し、それが倫理・道徳・規範となります。決して対立・闘争の構図からは生じません。ですから唯物弁証法にとっては「厄介な敵」ということになります。
 そもそも、今日の学校の現場でのいわゆる過激な性教育では、教師用資料に「愛のないセックスはダメ」という観念を植えつけてはいけない、と記されているというのです。ここでも愛は極端に「疎外」されています。
 つまりそれは、何をもたらすでしょうか。いかなる人間、そしていかなる生命の起源にあるもの――愛――という観念なくしては、真の意味での「生命の尊重」はありえません。

 なぜでしょうか。「私」という存在の背景には両親の愛が存在していたはずです。「レゾン・デートル」(存在根拠)というフレーズが一時期はやりましたが、存在根拠となっているものこそ、愛(宗教的には神の愛)だと言えるでしょう。
 12歳の少年が幼児を殺した事件は、社会に衝撃を与えました。だからと言っていくら少年法を改正し触法年齢を引き下げたところで、「この子は両親の愛があって生を受けた特別な存在なのだ」という理解がなければ、自分以外の人間を「モノ」としか考えなくなります。親は親で、産む産まないなどと胎児を「モノ」として見ている。
 こうした現象はなべて、「愛の疎外・不在」に由来すると言えます。このことに気がつかなければ、亡国の坂道を転げ落ちていくしかなくなるでしょう。

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