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~もう一つの共産主義を検証する~ エンゲルスの「遺言」と内紛

【思想新聞2004年4月15日号】ポストマルクスの群像 7

修正主義論争・1

 マルクス亡き後、「始祖」の遺志を受け継ぐカリスマ的存在として君臨したエンゲルスも遂に1895年に世を去ります。しかしそれは一つの時代の終わりであると同時に、マルクス主義者たちの間にくすぶり続けていた矛盾が一気に突出した、まさに新たな闘争の始まりでした。それはまた「もう一つの共産主義」が顕現する契機ともなったのです。

 フリードリヒ・エンゲルスは1895年8月5日、食道癌のため亡くなります。その遺骨は遺言により、海に投じられました。
 エンゲルスの遺言は、主に、マルクスとエンゲルス両者の遺稿の処理について書かれていました。晩年、マルクスの遺した膨大な論文を『資本論』などに編集・出版する作業に追われたエンゲルスにとり、最大の気がかりだったのは、マルクスと共同で産み出した「共産主義思想をいかに後世に遺すか」ということだったと言えます。
 何の準備もなく死んでいったマルクスの場合とは対照的に、エンゲルスは用意周到だったと言えます。
 まずマルクスの遺稿や手紙そのものは、マルクスの末娘エリノアの許に返されました。エンゲルスのそれは、ドイツ社会民主党(マルクス主義政党)のアウグスト・ベーベル(一八四〇~一九一三)とエドヴァルト・ベルンシュタイン(一八五〇~一九三二)に委ねられることになりました。
 一方、エンゲルスの遺言執行人は、エンゲルスの友人であるサムエル・ムアとベルンシュタイン、それにルイゼ・カウツキーの三人が指名されていました。
 ここでドイツ社民党に触れてみましょう。もともとドイツでは、社会的地位の向上を求める労働者層が同時に普通選挙などの政治的民主主義を要求していたことから、これらの主張が「社会民主主義」と呼ばれ、それがもとで後日、「ドイツ社会民主党」と称することになったのです。しかし、党内の思想闘争がマルクスの生前からあり、一八七五年の「ゴータ綱領」を経て、マルクス・エンゲルスの思想を体現したものとしてエンゲルスがお墨付きを与えた「エルフルト綱領」を九一年に採択し名実共に「共産党」となりました。そして、エンゲルス自らがマルクスと育てたこの党の「行く末」について述べたのが、下に掲げた「政治的遺言」の一文なのです。
 ここで登場する人物は、共産主義の将来を見通す上で示唆的です。ドイツ社民党はマルクス=エンゲルスの遺志を継いだものの、エンゲルスの死後、マルクス主義の解釈をめぐり党派抗争(修正主義論争)を展開することになります。
 ムアは後に『資本論』の英訳などを手がけ共産主義の普及に努めました。
 ベーベルはマルクスの「後継者」と目され、ドイツの国会議員として反ビスマルクの論陣を張ったことで知られます。共産主義の面、本論稿の趣旨からして重要なかつ特筆すべきなのは、エンゲルスが家族論(『家族・私有財産・国家の起源』)を著す前に『婦人と社会主義』(一八七九年)を著したことでしょう。ここで「社会主義革命なくして婦人の真の解放がない」と論じており、多少なりともエンゲルスの著作にも影響を与えたと言えます。
 これに対しベルンシュタインは、ドイツ社会民主党で「修正主義の創始者」と呼ばれることになる人物です。重要な後継者の一人と目されながら、特にマルクスの「貧困増大の法則」を批判し、社会革命を否定、議会主義による漸進的社会主義の実現を提唱し、のちにヨーロッパの社会主義に大きな影響を与えました。ベーベルはこの「修正主義」に反対、急進的共産主義者、特にローザ・ルクセンブルクらはこれを厳しく批判しました。しかし民主主義の本義からすれば、ベルンシュタインの判断の方が正しかった、ということは歴史が証言しているのです。
 一方、ルイゼ・カウツキーは、ドイツ社民党の正統派を自任する理論的指導者であるカール・カウツキー(一八五四~一九三八)の前妻にあたる女性で、病床のエンゲルスの晩年を助けました。彼女を信頼したエンゲルスは、離婚をめぐりカール・カウツキーを嫌いました。しかし彼が後の共産主義運動へ与えた影響には多大なものがあります。
 カウツキーは思想面でベーベルと同調し、ベルンシュタインの修正主義に反対。しかし、レーニンのロシア革命によるプロレタリア独裁論を激しく批判し対峙することになります。
 ところで、エンゲルスの政治的な「遺言」と目される「資料」の文面は、もともと「革命先進国」としてのフランスの階級社会について書いた本の序文と言えるものです。確かにフランス革命(一七八九年)、七月革命(一八三〇年)、二月革命(一八四八年)、第二帝政崩壊後のパリ・コミューン(一八七一年)と立て続けに革命・争乱が起こるほどのフランスでしたが、マルクス主義的思潮から言えば、「主流」とはなりませんでした。
 D・マクレランの『アフター・マルクス』では、本格的な思想としてのマルクス主義が伝わったのは、やはりドイツ、そしてロシアにすぎなかった、と分析しています。逆に言えば、ドイツにおいてさえ、「市民権」を獲得しえなかったと言ってもよいでしょう。
 マクレランがその周辺国として挙げているのは、フランスとイタリアです。
 例えばフランスでは、マルクス主義組織的政党はジュール・ゲード率いるフランス労働党でした。彼らは「マルクスの後継者」を自称してはいたものの、理論面では強靱なイデオローグを欠きました。よって、フランスでのマルクス主義の「変容」は、ドイツでの修正主義論争のように理論戦になるどころか、一様に「改良主義的社会主義者」になったと言えます。やはり、サン=シモン、シャルル・フーリエらの「空想的社会主義者」を輩出した社会的なバックボーンと言えるのかもしれません。
 一方イタリアでは、一八六〇年代以降の労働運動は、多分に無政府主義的でしたが九〇年代以後マルクス主義がようやく影響を与えはじめ、社会主義政党が形成され、成果をあげます。にもかかわらず依然として、強固な工業労働者の基盤をもたず、アナルコ・サンディカリストたちの脅威に晒されて弱小の存在でした。だが、同党は九〇年代に、知識人を引き寄せることに成功します。最も著名な知識人は哲学教授のアントニオ・ラブリオーラです。彼は「エンゲルスが亡き後の数年間、国際的に見て最良のマルクス解説者であった」(マクレラン)。彼は、自著『唯物史観研究』でマルクス主義の唯物論的な解釈に反対し、グラムシやルカーチの先駆者とすら言え、反実証主義的かつ歴史主義的なマルクス主義をイタリアに受容しましたが彼には直接の後継者がいませんでした。もう一人の著名な社会主義者ベネット・クローチェは、社会の発展を予言する理論としてマルクス主義を捉えることに興味を示さず、マルクス主義を科学と見なす見方を退け、マルクス経済学とりわけ価値論を批判し、社会主義の倫理的な側面を重視しました。

資  料
▼ エンゲルスの政治的「遺言」

「今日でも我々は225万人の有権者をあてにすることができる。この勢いで進めば、我々は今世紀の終わりまでに、社会の中間層、小ブルジョワや小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長し、他の全ての勢力は、欲すると欲しないとにかかわらず、これに屈しなければならなくなる。この成長を不断に進行させて、遂には自ずから今日の統治制度の手に負えないまでにすること、この日々増強する強力部隊を前哨戦で消耗させないで決戦の日まで無傷のまま保っておくこと、これが我々の主要な任務である。そしてドイツの社会主義的戦闘力のこの不断の成長を、一時押さえ止め、しばらくでも退却させることのできる手段は一つしかない。それは軍隊との大規模な衝突であり、一八七一年のパリにおけるような出血である。百万単位で数えられる一政党をこの世界から追い払うことは、ヨーロッパとアメリカの連発銃を全部もってきても、できないだろう」(F・エン


■参 考 資 料■

【〈マルクス後〉めぐる小年表

○1875 「ゴータ綱領」,同批判
○1883 マルクス没,ベーベル『婦人論』,プレハノフ『社会主義と政治闘争』
○1884 フェビアン協会(英国)結成
○1888 エンゲルス『フォイエルバッハ論』
○1889 第二インターナショナル結成
○1891 ドイツ社民党エルフルト大会,『エルフルト綱領』
○1893 独立労働党(英国)結成
○1895 エンゲルス没,「『フランスにおける階級闘争』序文」
○1898 ロシア社会民主労働党創立
○1899 ドイツ社民党大会、ベルンシュタインの修正主義を拒否,ベルンシュタイン『社会主義の諸前提と  社会民主主義の任務』,レーニン『ロシアにおける資本主義の発展』,カウツキー『農業問題』,ローザ・ルクセンブルク『社会改良か革命か』
○1900 英国労働党結成
○1901 米国社会党創立
○1902 レーニン『何をなすべきか』
○1903 ロシア社会民主党第二回大会,ボリシェビキとメンシェビキの分裂
○1905 第一次ロシア革命〔血の日曜日事件〕,ドイツ社民党イエナ大会
○1906 カウツキー『倫理と唯物史観』,ルクセンブルク『大衆ストライキ,党及び労働組合』,トロツキー『我々の革命』
○1907 第二インターナショナル、シュトゥットガルト大会
○1908 バウアー『民族問題と社会民主主義』,プレハノフ『マルクス主義の根本問題』,レーニン『唯物論と経験批判論』
○1909 カウツキー『権力への道』
○1910 ヒルファーディング『金融資本論』

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