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~もう一つの共産主義を検証する~ ウェーバーへの先駆的影響

【思想新聞2004年5月15日号】ポストマルクスの群像 9

修正主義論争・3

 マルクスの経済理論からすれば、資本主義先進国イギリスは最もプロレタリア革命の可能性のある国と言えました。しかしマルクスは、英国の労働運動の動きに「イギリスの労働者階級は彼ら自身の抑圧者である資本家の党の単なる尻尾に成り下がった」(1878年、リープクネヒト宛書簡)と極めて冷淡でした。
 しかし、1884年に発足したウェッブ夫妻らのフェビアン協会と交流をもったベルンシュタインは、晩年のエンゲルスにフェビアン主義者への過大評価を指摘されます(92年)。当時「サロン社会主義」と見なされていたフェビアン社会主義でしたが、ベルンシュタインもある程度の距離は置いていたようです。
 後の急進派を代表するローザ・ルクセンブルクが「ベルンシュタインは、イギリスの諸関係を足場にして彼の理論を組み立てたのであり、『イギリスの眼鏡』をかけて世界を見ているのだ」と述べたように、エンゲルスやベーベルも含めてドイツ社会民主党の指導者たちのほとんど全員が自明のことだと認識していたようです。
 ベルンシュタインにとってフェビアン主義以上に大きかったのは、ピューリタン(清教徒)の信仰を持つ社会主義者との交流だったようです。
 具体的には、先に紹介した亀嶋庸一・成蹊大教授の『ベルンシュタイン』が以下のように述べています。
「彼の自伝『私の亡命時代から』によれば、ベルンシュタインは在英中イギリス人との日常的接触を通して相互信頼と個人的自己責任の慣習に感銘を受けた。とりわけ彼の興味を引いたのは、こうした慣習の背景となっていたイギリスの宗教的伝統であり、その伝統と労働運動との結びつきであった。彼は労働争議の際の宗教団体による支援活動をイギリス労働運動が享受している恵まれた条件の一つと見なしていた。さらに、宗教的伝統と労働運動との関連についてのベルンシュタインの感心にとって一層決定的な契機となったのは、彼が実際に接したイギリス労働運動の指導者たちの持つ特性であった。ジョン・バーンズに会った時、ベルンシュタインは彼が一滴の酒も飲まないことに興味を抱いた。後に彼は、イギリスでは労働者階級出身の社会主義者の多くが厳格な禁酒主義者であり、その点でブルジョア階級出身の社会主義者と際だった対照をなしていることを知ることになった。同様の印象を、彼はケア・ハーディからも受けている。『彼(ハーディ)と会った時には、私はいつも贖罪者に相対した現世主義者が捉えられるような感情を抱いたものだった』。ベルンシュタインによれば、スコットランド出身のハーディは『古ピューリタンの国民契約者(Co-venanter)の態度を多く身につけていた』し、バーンズもその家系はスコットランド出身であった。ベルンシュタインは、彼らとの交流を通して、イギリスにおける政治的急進主義と宗教的伝統との結合が未だに労働運動の指導者たちに継承されていることを具体的に知ることができた」。
 このような英国のストイックな宗教的慣習に触れて、ベルンシュタインはいわば「官憲教会」しかもたなかったドイツと比較して、「資料」に掲げたように「宗教を自ら獲得した国民」として英国を羨んだとも言えます。
     ◇
 この経験が契機となり、ベルンシュタインが、イギリス労働運動の歴史的・宗教的源流、すなわち17世紀革命における社会主義の先駆と宗教へと、彼の関心を向けさせ、その研究に没頭するようになります。
 こうして1895年にベルンシュタインは、「17世紀のイギリス革命における共産主義的及び民主主義的・社会主義的潮流」と題する論文を発表します。この論文はピューリタン革命史研究の先駆として英国の歴史学者ばかりでなくドイツの学界、それもG・イェリネク、M・ウェーバー、E・トレルチといった第一級の学者たちの注目を集めました。
 とりわけ、M・ウェーバーはその代表的名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、ベルンシュタインの言葉を数度にわたり引用しているほどなのです。
 ちなみに、くだんの亀嶋庸一教授は『ベルンシュタイン』(みすず書房)の「あとがき」で、「筆者がベルンシュタイン研究に取り組むようになったきっかけの一つは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中でベルンシュタインが引用されているのを見て、なぜウェーバーがベルンシュタインに言及していたのか、なぜ《修正主義者》ベルンシュタインがクェーカー研究をしていたのか、という素朴な疑問を抱いたことにあった」と述べています。
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 さて亀嶋氏によれば、 イギリス革命史に関するベルンシュタイン論文の特徴は、1648年のピューリタン革命と、1848年のフランス(二月)革命とは、その革命の担い手の在り方が全く違っている、というのです。この点でベルンシュタインは、1648年革命の急進派としてのピューリタンたち、特に彼らの晩年に示した思想形態に対するベルンシュタインの強い共感が見られるのです。
 そして一方、二月革命を次のように見なしました。 
「彼は1848年の革命それ自体の意義については高く評価していた。彼によれば、パリ・コミューンが一九世紀の単なる一つのエピソードにすぎないのに対し、1848年の革命は公的世界での一大変化を、すなわちヨーロッパにおける民主主義の時代の始まりを告げるものであったからである。それゆえにこそ、彼には革命が辿った悲惨な運命の原因を追及する必要があった。その原因は彼によれば、マルクスによってフランス・プロレタリアートの真の代表と呼ばれたブランキストがとった戦術にあった」(『ベルンシュタイン』)。
 では、どのような戦術をすべきだったのか。そこで行き着いたのが、クェーカー教徒たちに代表される「禁欲的な宗教的エートス(倫理規範)」にほかなりませんでした。
 マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、資本主義精神の「粋」を、米国のベンジャミン・フランクリンの言葉に「世俗化されたもの」と断りながらも見ていますが、背景にあるのは間違いなく宗教的なものだ、としています。
 そう考えればベルンシュタインはウェーバー社会学の先達と言えるでしょう。
「資料」に掲げたのは、そうした部分ですが、そこからどうして「自己責任」という考え方が出てくるのでしょうか。それを考える上で貴重な資料がリンゼイの記述と言えます(別掲「参考資料」)。

―資料―
▼ ベルンシュタインの宗教観と自己責任論
「宗教は、それを自ら獲得した国民にとって、それを上から与えられた国民の場合とは全く異なるものである」(E・ベルンシュタイン『私の亡命時代から』)
「彼ら(クェーカー教徒)の禁欲的節制と分別、彼らの緊密なフリーメイスン的結束は、クェーカーを極めて成功した実業家へと発展させる原因となった」(ベルンシュタイン「一七世紀のイギリス革命における共産主義的及び民主主義的・社会主義的潮流」一八九五年)
「現代社会における社会経済的原則は、経済的自己責任の原則であり、この原則を動揺させるようないかなる福祉政策も既存の社会秩序の立場からは、非社会的あるいは反社会的と見なされるべきであろう」(ベルンシュタイン「空間と数の社会政治的意義」~『ノイエ・ツァイト』掲載 一八九六年)

■参 考 資 料■

【民主主義の本質と社会主義】 A.D.Linsey

「ある種の人々にとって社会主義とは、政治の領域において既にうまく運用されている民主主義原理を、産業支配の領域に適用することを意味する。こういった社会主義は、民主主義と矛盾するどころか、逆に民主主義の充実の達成なのである。しかし、他の人々にとって社会主義は、中央集権国家による、あらゆる経済的機能の完全な運営を意味している。そして彼らは、この実際的な計画を、とりわけ経済的な事柄だけが重要であるという教義と、結びつけている。ボルシェビズムのような社会主義は全体主義国家の要因を内にもっている。それゆえ、さような社会主義は、民主主義と矛盾するものである。このことは、計画を立てるということと民主主義が全く矛盾しているからというものではない。…もちろん全体主義国家といえども民主的な憲法をもつことは可能である。しかし、国家の外の組織の全中枢が抑圧されているならば、孤立した個々人は行政権力に対抗するいかなる機会も持てない。そこに真の民主主義があり得るはずがない。
 マルクス主義は根本的に民主主義と両立しない。マルクス主義の人間性についての考えは、ホッブズのそれと同じだからである。自分の経済的利益しか追求できない人間は、経済的利益を共通利益に従属させることができない。マルクス主義は、民主主義の抱えている難題に決して直面しなかった。……ベンサム主義は経済における自由放任(アナーキー)、政治の領域における支配を肯定した。マルクスは経済的不調和があまりにも政治を歪めたので、その不調和が取り除かれるまでは、民主主義国家は支配階級による搾取機関であるにすぎない、と考えた。にもかかわらず、マルクスはベンサム主義を逆にしたように見える。マルクスは、もし財産が公有化され、そのことにより階級闘争が取り除かれるならば、国家は死滅してしまい、利害の自然調和というものが取って代わるだろうと考えた。だから、この下では、民主主義政府は存立不可能か、あるいは不必要のどちらかとなる。
A.D.リンゼイ『民主主義の本質 ~イギリス・デモクラシーとピュウリタニズム』永岡薫訳 未来社「第二版序文」)
※「民主主義というものは、共通利害が部分利害に優先するものだということを人々がどう感ずるかにかかっている」としたリンゼイは、全体主義の克服を宗教性に見た民主主義の本質こそ、より普遍的な理念たり得ると見なしました。

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