思想新聞2003年10月1日号【視点論点】
世界家庭政策センター理事長
R.ウィルキンズ氏
家庭の意義は「繁殖可能性」
自然な家庭に対する攻撃で最も扱うのが難しい問題が、男女の一対一の関係は特別なものではなく、「多様な形態の家庭」が存在するという最近の主張だ。この問題に関してはもはや理性的な議論ができない。ある意味でこの表現はまったく正しい。家庭には常に片親家庭、継子のいる家庭、叔父叔母、祖父母、その他の親戚のいる家庭も含まれていた。だがそれを拡大解釈し、家庭が育児や繁殖と何の関係もないと主張するのにほかならない。
そう理解されれば、男性同士または女性同士であろうと、あるいはその他のいかなるグループであろうと、「家庭」と同じ地位を主張できることになる。
しかしその主張が成り立つためには、社会存続に不可欠な繁殖に対する関心、つまり出産と育児に対する関心を、家庭の概念から完全に切り離してしまうことに国際社会が同意しなければならない。
このように家庭の概念から繁殖を切り離してしまうことは、法的・社会学的・道徳的・哲学的な観点からみて、深刻な問題をはらんでいる。
異性間の性関係、とりわけ婚姻関係は、他のあらゆる性関係と本質的に異なる。婚姻により結ばれた一人の男性と一人の女性の性関係は、人間の「基本的」あるいは「本来的」な善の姿だ。これは主に、自然な婚姻関係が繁殖の生物学的可能性を有するという理由による。実際、この繁殖可能性を剥奪すれば、性関係は互いに快楽を分かち合う肉体的感覚以外の何物でもなくなってしまう。この感覚は同性愛でも感じることは可能だ。
もし自然な家庭が繁殖という社会の命令を遂行するために存するとすれば、なぜ子供のいない夫婦が家庭の定義に合致するのか、と論じる人もいよう。
だがこの論議は的外れだ。自然な家庭は、他のいかなる性関係とも異なり、繁殖のための生物学的可能性をもつ唯一の性関係である一人の男性と一人の女性の結合に対する、社会の深い関心を促進する。
自然な家庭における繁殖は異性間の組み合わせを必要とする。一組の男女の性関係は、たとえ子供がいなくとも、同性同士の組み合わせとは根本的に異なる。同性愛カップルには繁殖可能性はなく、子供を得るには法的手続き(養子)や医療技術(人工授精)に頼るしかないが、異性愛カップルは一般に繁殖の可能性がある。よって一組の男女の性関係は、(たとえ子がいなくても)同性愛カップルとは本質的に異なる。異性愛カップルが一般に繁殖のための生物学的可能性を持つのに対し、同性愛カップルは常に持たない。この潜在的繁殖可能性こそ、相互に快楽を分かち合う肉体的感覚の上にのみ築かれた関係以上に、社会が重要視すべきものなのだ。
「社会の存続」を促進する自然な家庭
したがって自然な家庭は感覚的経験だけでなく、社会の「存続そのもの」を促進する。さらに、(国家の)法律は性行為と繁殖の間の重要な違いを見落すことはない。国際法では、生物学的に明らかな区別が認知されなければならない。国際的な意思決定は、その他のあらゆる形態の意思決定にまさり、原則と理性に基づかなければならない。世界的に通用する家庭の定義があるとすれば、幾世代にも渡り人類を導いてきた否定し難い正当な根拠のある原則は、単純で筋が通っている。つまり、繁殖を伴う性とそうでない性の間には根本的な違いがあるということだ。
繁殖は、両性が必ず相手を必要とする唯一の人間の行為だ。女性はその人生において、繁殖以外なら何事も男なしでなすことができる。これは男性も同じことだ。したがって、一人の男性と一人の女性を結びつける性は、特別な種類のものなのだ。この特別さこそまさに「結婚」が二人を一体にするという宗教的・歴史的・形而上学的観念の基礎となっている。
さらに、もし国際法が繁殖を伴う性が特別な役割を持つという原則を放棄したら、個人や社会に対して有害な性関係と有益な性関係の間に原則的な区別をする基盤を失う。実際、同性の結婚に対する国際的な保護を求める要求は、同意に基づくあらゆる性行為に対する国際的な保護を求める方向へと向かうだろう。結局、繁殖という原則ラインを放棄してしまえば、単に感覚的経験としての性しか残されていない。もし国際社会が長年にわたって確立された自然な家庭の定義から離れるならば、同意に基づくあらゆる性関係に対し「家庭」の地位を与えるのを拒否する原則的根拠は失われてしまうのだ。
(取材・提供=IIFWP事務局&『平和大使』)


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