国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1896号 (令和8年4月1日)

小沢氏強制起訴 マックス・ウェーバー的考察

この記事は2011年2月2日に投稿されました。

小沢一郎・民主党元代表が資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で1月31日、強制起訴された。これで事件の黒白は司法の場で明らかにされ、いずれ決着が着く。小沢氏が述べているように、検察審査会制度は「国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度」である。だから小沢氏は「私は全国民に開かれた法廷の場においても真実を述べてまいります」としている。確かに司法においてはそういうことであって異論はない。だが、政治としては果たしてそれでいいのだろうか。

司法とは別に政治の説明責任は残る

政治には権力がつきものなので、政治家の私利私欲や利益団体からの働きかけなどによって汚職事件や不祥事が往々にして起こる。このことは戦後の日本政治も示しているところでもある。小沢問題もそこを問われている。現行憲法は政治家のこの種の腐敗について特に言及しない。第58条2項に「院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする」とするだけで、政治腐敗について特段の条項はない。それで政治家自身が国会においてルールを作った。すなわち衆参両院は1985年に「政治倫理綱領」を採択し、その冒頭で「政治倫理の確立は、議会政治の根幹である」と明記した。だから政治家が疑惑を持たれれば(少なくとも小沢氏は現職衆院議員を含む元秘書3人が起訴されている)、進んで国会の場で説明するのが政治家、国会議員としての責任であり、矜持である。司法で黒白をつけるのとは別の話なのである。

「職業としての政治」は何を語っているのか

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著作に『職業としての政治』がある。昨年11月、仙谷官房長官(当時)が自衛隊を「暴力装置」と述べた際、「暴力装置」はウェーバーの『職業としての政治』に登場するとして取りざたされたことがある。ウェーバーはドイツが第1次大戦の敗戦に至った苦い経験から、自らの研究を単なる学問研究に終わらせず、具体的な政治の世界に波及させねばならないとの強い衝撃から1919年、学生らの前で講演した。それをまとめたのが『職業としての政治』である。ウェーバーによれば、政治とは権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。それは国家相互の間であれ、国家の枠の中であれ、あるいは国家に含まれた人間集団相互の間で行われる場合であれ、いずれにも該当する。したがって国家とは「正当な物理的強制力行使(暴力という訳語を使う場合があるが馴染まない)の独占を(実効的に)要求する人間共同体」である。
 では、このような国家の「正当性」はどこに根拠があるのか。そこでウェーバーは伝統的支配、合法的支配、カリスマ的支配の3つの形態を提示する。このいずれの支配形態であれ、継続的な行政を行おうとすれば、人的な行政スタッフと行政手段(いざという時の物理的強制力)の2つが必要となり、ここに近代国家における「職業政治家」が登場してくることになるという。そこでウェーバーはイギリスやドイツなどの官僚やジャーナリスト出身の政治家を分析し、政治を職業とする人間には2つの道があるとことを導き出す。それは「政治のために」生きるか、それとも「政治によって」生きるかの2つである。この区別は政治を収入源にするか、それともしないかの違いだという。一見、「政治のために」生きる政治家が理想のように見えるが、しかし政治家に「政治のために」だけを求めれば、それが可能な人物は資産家や十分な収入が得られる地位にある人々に限られ、政治指導者層の人的補充は「金権制的」に陥るとウェーバーは見る。これに対して「政治によって」生きる人々が「職業政治家」になると、政治は生計を立てるという目的のための手段に陥っていく傾向が強まる。いずれにしても、政治は「金」との関わりから逃れられない。したがって政治の「ために」であれ、「よって」であれ、いずれにしても政治行動の原動力が権力である以上、権力に携わる「職業政治家」の資質が厳しく問われることになる。つまり、政治家は権力に相応しい人間か、あるいは権力が彼に課する責任に耐え得る人間になれるか、という倫理的問題に行き着く。ここに政治と倫理の関係がクローズアップされることになる。

心情倫理と責任倫理による「政治への天職」

ウェーバーによれば、倫理には「心情倫理」と「責任倫理」が対立している。心情倫理を宗教的にいえば、「キリスト者は正しきを行い、結果を神に委ねる」となるが、これに対して責任倫理は人の予見し得る結果への責任を負うべきだと迫り、両者は鋭く対立する。政治がそのいずれに準拠すべきはきわめて難しい問題となる。ウェーバーは政治が権力という特殊な手段を用いて運営されているのだから、政治に関する倫理問題もまた特殊なものとする。心情倫理家は、道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否する。これに対して責任倫理家は自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することできないと考える。では、政治はどうか。政治行為は物理的強制力を用い、責任倫理という道を通って行われるのであるから、政治家にとって大切なものは将来に対する責任ということになる。しかしウェーバーは心情倫理を真っ向から否定するわけではない。政治は責任倫理に従って行動するが、誰しもがある地点で心情倫理に照らし合わせて苦悩し、踏み止まるときが必ずある。その限りにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両方相まって「政治への天職」を持ち得る真の人間を作り出す、というのである。そこでウェーバーは政治家の資質を情熱と責任感、判断力の3つとする。情熱は「仕事」への奉仕として責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時、はじめて政治家を作り出す。ここに政治家の決定的な心理的資質である判断力が養われるようになる。

問われているのは「職業政治家」としての矜持

結局、ウェーバーは「政治とは情熱と判断力の2つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫く作業」であり、いかなる現実にも挫けないと言い切れる人間のみが政治への天職を持つ、としているのである。では、小沢氏はどうか。確かに、いかなる現実にも挫けない意思を持ち合わせているように見受けられる。だが、「政治のために」生きているのか、それとも「政治によって」生きていくのか、疑念を残している。不透明な巨額の政治資金の原資は何なのか、それが何に使われているのか、司法とは別に、「心情倫理」に照らし合わせ、権力に携わる「職業政治家」の資質を厳しく問うているのである。むろん小沢氏には「責任倫理」もまた問われる。それは親中的な外交姿勢や将来の世代にツケを回すバラマキ的「生活が第一。」なる政策への疑念である。後者はさておいて今、小沢氏は心情倫理に照らし合わせて踏み止まるときではないのか。政治家としての資質が問題視されているのであるから、自ら進んでその疑念について語らねば筋が通らない。司法解明を理由に沈黙し続けているようでは、政治家失格の烙印を押されるであろう。国会の政治倫理審査会であれ、証人喚問であれ、小沢氏は国民にむかって真実を語るべきである。

2011年2月2日

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