国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1898号 (令和8年5月1日)

永田洋子の死 共産主義思想がもたらした惨劇

この記事は2011年2月8日に投稿されました。

極左過激派集団、連合赤軍を率い1971年から72年にかけて大量リンチ殺人などを起こし、死刑が確定していた同組織の元最高幹部、永田洋子死刑囚(65)が2月5日、東京・小菅の東京拘置所内で病死した。最高裁が上告を棄却し、死刑が確定したのは1993年のことだ。刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内に法務大臣が執行を命令するよう定めている。それにもかかわらず、18年間も死刑執行が行われず、病死に至ったことは真に遺憾である。あさま山荘事件で現場指揮した佐々淳行元内閣安全保障室長は「凶悪犯ほど早く執行すべきなのに、イデオロギー的な犯罪には手をつけられず、永田洋子死刑囚は手術も受け、税金で生きるようにさせてきた。事件で殉職した警察官のことは全く考えられていない」(産経新聞2月7日付)と刑事政策を厳しく批判しているが、我々もまったく同感である。

革命運動を正当化し公判を裁判闘争とした非情さ

あさま山荘事件では1972年2月28日、警視庁特科車両隊の高見繁光警部と同庁第二機動隊長の内田尚直警視が同山荘で人質となった女性を救出するために突入を試み、凶悪犯5人から銃撃を受け生命を落とした。あさま山荘ではそのほか、警官8人とテレビカメラマン1人が犯人の手投げ弾、銃撃で重軽傷を負った。そして事件後に一連のリンチ殺人が発覚した。すなわち永田死刑囚らは連合赤軍から脱出しようとした仲間2人を謀殺し千葉県・印旛沼付近に埋めたほか、群馬県・榛名山など山岳アジトにおいて「総括」と称して陰惨なリンチを加え、手足を縛って厳寒の山中に放置し、あるいは殴打を繰り返し、仲間11人を殺害し、死体を山中に埋めた。計14人の仲間に対して想像を絶する凶悪な手法で殺害した、まさに大量凶悪殺人犯、それが永田洋子の実像である。
 逮捕された後、連合赤軍の最高指導者だった森恒夫は1973年1月1日に東京拘置所において自殺した。だが、永田洋子は公判を国家権力の連合赤軍事件に対する歪曲と戦う裁判闘争と位置づけ、「(革命路線の)誤りを犯した私がこのようなことをいうのはおこがましいが、革命運動は、舗装された平坦の大道を歩むものでは決してない。それは、曲がりくねった難所だらけの悪道を歩むものである。だから、革命運動には誤りや失敗がつきものである」(『十六の墓標』彩流社)と開き直り続けた。死刑判決に対しても「私を性悪女のようにののしることによって、女性そのものを非難していると思った」(『氷解 女の自立を求めて』彩流社)と自らを女性解放の英雄であるかのように振舞い、犠牲者や遺族に対して革命路線的な誤りは認めたとして、真に謝罪し贖罪しようとする姿勢を一切見せなかった。殉教警察官らの遺族はいかなる心情で永田洋子の死を聞いたことであろうか。無念さは想像に余りある。

人を「もの」とする共産主義が蛮行の原因

犯した罪を償う。これは森羅万象の摂理である。永田洋子は16人(彼女の『十六の墓標』は殺害した14人の仲間と森恒夫、70年12月の上赤塚交番襲撃闘争で死亡した1人の仲間を加えた16人だが、ここでは殉教警察官を加えた16人)の死に対して、自らの生命をもって償うべきであるのは論を待たない(むろん償いきれないが)。しかしながら、それだけでなく、永田洋子をして「悪魔」とせしめた共産主義思想に対しても、我々は死刑判決を下さねばならない。1審東京地裁の判決は事件の原因を「永田被告らの個人的資質の欠陥」とし、「自己顕示欲が旺盛、感情的、攻撃的、強い猜疑(さいぎ)心、嫉妬心」と欠陥を列挙し、死刑は免れないと断じた。確かにそうした面もあるが、連合赤軍事件の原因を永田洋子の個人的資質の欠陥にのみ求めることは偏りすぎている。永田が「総括」を「共産主義化」として取り組んだように、また森恒雄のみならず多くの極左集団、そして内外の共産党(もちろん日本共産党も)が共産主義の名をもって、つまり、より確固たる共産主義者たらんとして、同じようなリンチや虐殺を繰り広げてきた歴史的事実を想起すべきである。永田が裁判闘争にあたって「戦前の1932年の『リンチ共産党事件』は、『特高と当時の共産党の指導者の合作』によって闇から闇に葬られてきたといわれているが、私たちが沈黙し権力に裁かれるままにしておくことは、裁判官と私たちの『合作』によって連合赤軍問題を闇から闇に葬りさることに他ならない」(『十六の墓標』)と、宮本顕治元共産党委員長によるリンチ人殺しと自らの蛮行を並べて論じ、裁判闘争や執筆を正当化しているところにも共産主義者の思考が露呈していると言えよう。
 共産主義は人間を「もの」として扱い、虫けらのように処遇した。1950年代時代の中国ではハエ取り運動を保育所や託児所でも行ったが、「一番嫌なものはアオバエ」「一番悪いのはアメリカ兵」「アオバエを殺せばスッキリする、アメリカ兵も1匹残らず殺したら平和になる」などと幼児たちに教え込んでいた(北朝鮮も同様だ)。革命意識の足らないものは木に縛りつけ、凍死するがままにし、これを「除草」と称した。こういう蛮行を共産主義者は世界中で繰り広げ、20世紀を「革命と粛清の世紀」とした。神仏を否定する唯物論、闘争によって発展するとした弁証法的唯物論、宗教や文化を土台(経済関係)の産物の上部構造と位置づけて宗教・文化抹殺を行う。それが共産主義であり、その徹底を試みたのが永田洋子で、それを連合赤軍は「総括」もしくは「共産主義化」と呼んだのである。その意味で殺された仲間たちは実に共産主義思想の犠牲者なのである。このことを銘記しておかねばならない。

日本共産党が連合赤軍という鬼っ子を生み出した

連合赤軍という鬼っ子を生み出したのは日本共産党にほかならない。連合赤軍とは赤軍派と京浜安保共闘が合体したものだが、赤軍派は1969年9月、共産主義同盟(ブンド)の分裂によって結成された。ブンドの前身は日本共産党の傘下にあった全学連で、1950年代前半、軍事闘争を煽った共産党に従って各地で火炎闘争を展開した。ところが1955年に共産党が第6回全国協議会で軍事路線を転換させ、さらに56年にスターリン批判が巻き起こったこともあって、全学連が共産党中央に疑念を抱き、58年6月、代々木の共産党本部に軍事路線継続を求めて殴りこみを掛け(6・1事件と称される)、あげくの果てに脱党して結成したのがブンドである。1960年の安保闘争後、分裂を重ね、さまざまなセクトを作り、その流れの中で赤軍派が登場、金融機関などを襲撃し軍資金を入手した。一方、京浜安保共闘は1969年4月に共産党の中の親中派(毛沢東派)が党を割り、「日本共産党左派神奈川県委員会準備会」を結成、そこから過激分子がさらに分裂し、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」を上部団体として結成された。マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を理論的な基盤とし「反米愛国」「毛沢東万歳」をスローガンに1971年頃から火炎瓶闘争や米軍基地襲撃事件などを展開し、栃木県真岡市の銃砲店を襲って武器を手に入れた。そしてカネの赤軍派中央軍と武器の京浜安保共闘人民軍が合体し、71年7月に連合赤軍を結成したのである。その後、武装闘争の中で孤立し、同志の「共産主義化」が不足しているとして「総括」し、リンチ大量殺人を犯すにいたった。

共産主義の魔手から解放する勝共運動を

永田洋子は本来、死刑執行をもって罪の償いをすべきであったことを今一度、強調しておく。共産主義思想によって自らを正当化し続け、悔い改めることなく病死したことは真に遺憾である。彼女の死に際して、改めて共産主義者によって犠牲になった人々の霊に哀悼の意を表す。同時に罪を憎んで人を憎まず。共産主義という悪魔の思想の虜となった共産主義者もまた、ある意味で犠牲者であると認識したい。彼らを魔の手から解放するため勝共運動のさらなる発展を誓うものである。

2011年2月8日

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