【思想新聞2004年5月1日号】憲法改正そのポイント8
さる3月、元外相・田中真紀子衆院議員の長女の私生活に関する記事を掲載した「週刊文春」(3月17日発売)の出版禁止騒動が起こりました。長女側がプライバシー侵害を理由に出版禁止の仮処分を求め、東京地裁は仮処分を決定、しかし後に東京高裁はこれを覆しました。
ここで文春側が強調したのは憲法で保障された「表現の自由」です。高裁決定は仮処分を認めませんでしたが、プライバシー侵害は認めました。「表現の自由」と「プライバシー権」の整合性が改めて問われた騒動だったと言えるでしょう。
これだけでなく個人情報保護法や有害環境を是正しようとする「Vチップ制度」の導入などが論議される際、必ずといっていいほど反対派やマスコミが持ち出さすのが「表現の自由を侵害する」という憲法論です。
権利濫用の禁止も無視する条項
極端な例を紹介しますと96年3月、大阪府立大学の「お笑い総合研究所」という学生サークルが、自分たちの公演の宣伝用にヌード写真入りの立て看板をキャンパスに立てたことがあります。これに対して大学側は、風紀を乱し不快感を与えるとして看板の撤去を求めたところ、学生サークルは大阪府を相手取って損害賠償訴訟を起こしました。ヌード看板撤去要求は「憲法が保障する表現の自由の侵害に当たる」として公演を中止した
“被害金”約百万円の支払いを要求したのです。
この訴えは認められませんでしたが、ここで登場したのが憲法の「表現の自由」条項です。週刊文春にしてもこの学生サークルにしても「表現の自由」を金科玉条のごとく扱っているのが特徴です。「表現の自由」は基本的人権のもっとも根幹をなす自由権の柱となるものですが、なぜか日本では「何でも表現の自由」論がまかり通っているかのようです。
その原因は、ほかならぬ憲法条文にあるのです。憲法第二一条には次のようにあります。
「?集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
?検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」
このように二一条は「集会、結社及び言論」の自由だけでなく「一切の表現の自由」と、わざわざ「一切」を入れて表現の自由を保障しているのですから、金科玉条のように扱われるのは当然かも知れません。
現行憲法は第一二条と一三条に自由・権利の保持責任とその濫用の禁止、利用の責任を明らかにしています。
すなわち一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と、「公共の福祉」を明記しています。
また一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と、ここでも「公共の福祉」をはっきりと規定しています。
ですから本来、国民の権利の一つである「表現の自由」も濫用してはならず、常に公共の福祉のために利用しなければならないはずです。ところが、二一条は「公共の福祉」を言わないばかりか「一切の」とわざわざ記することによって、あたかも何でも「表現の自由」が保障されていると錯覚、誤解を与えてしまっているのです。
あるいは文字どおりに解釈して(まさに九条と同じように)、「一切の表現の自由」が保障されているとの強弁を招いてし
まうのです。
ドイツでは濫用者の権利を剥奪
戦後日本は「公共」よりも「個人」が何事にも優先されてきました。戦後の憲法解釈を主導してきた憲法学者、宮沢俊義氏は「『公共の福祉』は、それら(公益)とはちがい、どこまでも個人主義に立脚する」(『コメンタール憲法』)と述べています。これこそ戦後民主主義というわけです。このように「個人主義優先」の憲法解釈に後押しされ、ことさら「公共の福祉」を無視する人々(とりわけ左翼学者)が、二一条が「一切の表現の自由」とわざわざ「一切」としていること、そして自由権は制約を受けない性質のものとして「何でも自由」な戦後日本社会をリードしてきたのです。
これに対してドイツではどうでしょうか。ドイツ基本法一八条は出版、集会、結社の自由に関して「自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これら基本権を喪失する」と明確に規定しています。
現行憲法の欠陥とも言える何でも「表現の自由」をきちんと改めておく必要があるのです。


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