思想新聞 2000年10月1日号
実録・日本共産党 7 その歴史と恐るべき素顔を探る
党方針で凶暴化
コミンテルンは「山川イズム」の山川均を荒畑寒村と分派活動だとし除名。表では無産政党に名を借り票を伸ばし普選で議席獲得も一斉検挙。地下メンバーが臨時常任中央委を結成し再建を図る。
党資金の獲得へ銀行強盗を実行
1932(昭和7)年にコミンテルン(事実上のソ連共産党)によって打ち出された「30年テーゼ」は、革命の主要目標の第一に天皇制の打倒を「掲げ、ついで地主からの土地没収、銀行ならびに企業の労農兵ソビエトによる管理をあげ、さらに帝国主義戦争を内乱に転化せしめ、労働者農民のソビエト政府の樹立をうたっていました。
この指令にもとづいて日本共産党の姿勢は、一挙に狂暴化していくことになります。
その皮切りとして、同年10月6日、東京・大森の川崎第百銀行を闘争資金調達のために共産党員がピストルを持って侵入、3万余円を強奪するという事件が起こりました。これは世に赤色ギャング事件と呼ばれるものです。
同事件の概要は次のようなものです10月6日、東京市大森区にある川崎第百銀行に3人組のピストル強盗が押し入り、現金3万円を強奪して逃亡しますが間もなく3人は逮捕されました。すると犯人はいずれも共産党員であることが判明します。
いったい犯行の動機は何なのか取り調べでわかったことは彼らは党の活動資金を得るために銀行強盗を計画したということです。それも3人が思い立って行ったのではなく共産党中央部の指令によるものです。
つまり共産党中央は東京市電争議を勃発させ、これを全国的ゼネストへ導くために相当額の資金を必要だとして、主犯の今泉善一(22)他2名の党員に対し、9月下旬までに3万円の資金調達を命令したのです。
そこで彼らは銀行襲撃の計画を練り、これを実行に移したのです。川崎第百銀行襲撃が成功すれば更に第2第3の銀行襲撃を計画していました。
同年10月11日には大阪で東京の今泉から資金収集のため、党資金局関西支局の再組織と武器購入の指令を受けていた党員の永井駿(25)他1名が同じく銀行襲撃などの計画を進めていた事実が暴露されて検挙されました。
この事件の総指揮者はマルクス学者として高名な河上肇(京大教授)の義弟大塚有章という人物でした。人間が一つの誤った大義名分と確信とお持ち、その目的達成の為には何をやっても許されるという傲慢な精神に陥った時、人間の心性がどれほど堕落し果てているかをこの事件は如実に物語るものといえるでしょう。戦後このような革命を大義名分にした銀行強盗としては1971年(昭和46)年2月から7月にかけて赤軍派がM作戦(マネーの頭文字)と称して八軒の郵便局、銀行などを襲撃資金奪取を敢行した事件があります。
ちなみに赤軍派は日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」(親中派毛沢東主義者集団として共産党から除名脱党した元党員で結成)の下部組織である「京浜安保闘争」と一緒に「連合赤軍」を結成し、あさま山荘事件やリンチ殺人事件を起こしていたことで有名です。
戦前の日本共産党は32年テーゼによって武力革命を主張し、まさに連合赤軍と全く変わらない武装闘争を繰り広げたわけです。戦前の天皇絶対制の国だから何をやっても許されると共産党はいうのでしょうか。いつの時代であれ強盗は悪に決まっています。
熱海会議以来2度にわたる大量検挙
さて「テーゼ」綱領といい、その行動といい捨ておきがたい重大事と見た警察当局は、10月30日、「32年テーゼ」の討議のため招集された「熱海会議」の席上に乗り込んで幹部を根こそぎ逮捕します。(熱海事件)ついで一般党員、青年共産同盟員、全協の活動家など1500人が検挙されたに至りました。
翌年2月に大阪地方を中心にさらに約1500人が検挙。また全協の中央委員全員が逮捕されました。その結果共産党は壊滅状態となり、急遽病気療養中の野呂栄太郎を委員長、宮本顕治(名誉議長)袴田里見(元副委員長)らを中央委員に立てて、中央組織を再編しますが『赤旗』の継続がやっとでその機能はほとんど停止状態にありました。
