思想新聞2002年3月1日 共産主義は間違っている!!
摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 5
究極的に生命論議は宗教的な地平に至る
国家の介在必要としない人権
Q 「動物の生きる権利」つまり「生命権」を言い出すときりがないのではないでしょうか? さる2月下旬に茨城県波崎町などで、沿岸に打ち上げられたクジラの集団が話題になりました。もはや捕鯨どころの話ではなくなっているのではないでしょうか。
A 本来なら、非情なる現実を眼前にして、そうした議論の果てに、まさに宗教的なカテゴリーの地平に踏み込んでいくことになるのでしょう。そのクジラの件でテレビなどでは「食べる人がいた! 信じられない」などと、いかにも偽善者ぶった(あるいは、反捕鯨団体に媚びた)扱い方をしています。水産庁の通達では、漁網にかかったり座礁したりした小型クジラ類は、生きていれば海へ戻し、死亡していれば埋めるか焼却かすると指導していますが、例外的に「伝統的に食用とする習慣のある地域では、死亡していた場合に限り、地元で消費して差し支えない」と認めています。しかしこの「例外」も、4月からは「認められない」ことになるようです。
そうした食文化が、本当に何か深刻な害を及ぼすと言うのであれば、「タバコ」の場合と同様に、誰もが納得できるところの科学的データが提示されなければならないのではないでしょうか。でなければ、単なる感情論に終わってしまいます。一つの文化の破壊ということを考えたとき、ちょうどアフガニスタンの時の実行勢力タリバンがバーミヤンの石仏を爆破した事件が思い起こされます。タリバン政権にとって巨大な石仏は「異教の悪しき偶像」としか映らなかったのです。
このように文化についても、一元主義が根強く、緩やかな多元主義というのは成り立たないのでしょうか。それこそ、そうした文化を享受する人々の「人権」が侵害されている、とは人権保護・動物愛護団体の人々は考えないのでしょうか。
彼らの感情論は突きつめれば、必ず職業差別に行き着きます。食肉解体業者や漁師すら、「生き物の敵」とされて侮蔑されるでしょう。その論理・追及の仕方は、全くと言っていいほど左翼過激派と変わりありません。自分たちに都合のいいものだけ「革命的」でありそれ以外は「反革命」のレッテルを貼る。そして「人民」の名の下に「粛清」が行われたのです。
余談ですが、日本捕鯨協会の機関誌『勇魚』で映画監督の梅川利明氏が「鯨捕りには、肌 身離さず阿弥陀仏を懐に抱く者もいれば、 数珠を持って漁に向かう男もいる。彼らに共通するのは、クジラの生命をもらうことで自分たちの人生があるという考え方」と語っています。逆説的ですが、まさに「生命の崇高さ」を真に理解した宗教的態度だと言うことができるでしょう。
個同士が戦う病を引きずるイデオロギー
左翼過激派の話が出てきたところで、再び「人権」の問題に戻りましょう。長谷川三千子・埼玉大教授によると、「民主主義の本質は、《われとわれとが戦う病い》から生まれ出て、その病をどこまでも引きずり続けるイデオロギーにほかならない」(『民主主義とは何なのか』)というのです。つまりそれはどういうことでしょうか。
自然法・天賦人権説というものは、自明のこととして、「自ずから然(しか)ある」ものとして見なされていますが、そこに決定的に欠落しているものがあります。個人を取り巻く家庭環境・社会環境・国家です。
このアポリアをもう少し分析してみましょう。人権が天賦のものであるなら、国家や社会の介在を必要としないのです。この点が実は、革命以前の社会においては「国家は人民の敵」「反体制こそ正義・良心」という特異な観念を生み出す土壌になっているのではないでしょうか。
吉本隆明氏のように「国家は幻想化された性」なる「幻想」的な見方(『共同幻想論』)をする向きもありますが、今日の人類は、共同体を構成する一つの形態として採用しています。もちろん、中には特定の民族・宗教などを排除し抑圧するような国家も厳然として存在してはいますが。
いつのまにか、天賦であるはずの個人の人権と国家の利害は反目するようになってしまい、個人と「天」との間に介在するものは「悪」になってしまったのです。しかし、そう考えると必ず矛盾にぶつかります。


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