思想新聞2004年4月15日号】勝共理論 マルクス人間疎外論 7
マルクスの思想形成はフォイエルバッハの人間主義の立場から始まりました。ドイツ新婚時代の著作がそれです。パリ亡命後はこれを放棄、プロレタリアートによる人間解放という構図を描きます。その中でエンゲルスの影響を受けて『経済学・哲学草稿』を著し、私有財産の止揚としての共産主義による疎外からの解放を唱えました。パリ時代の著作はいずれもその立場からのものです。
ところが1845年2月、プロイセン(ドイツ)はフランス政府にマルクスの国外追放を要求し、ついにマルクスはブリュッセルに移ります。この仕打ちにマルクスはドイツへの憎悪に掻き立てられます。経済的困窮とドイツ国籍放棄(45年10月)によって、その怒りは頂点に達しました。マルクスにとっての第三の心理的衝撃です。
その矛先はドイツの学者たちに向かいました。フォイエルバッハ批判に加えて、ドイツ観念論批判を展開、プロレタリアートによる人間解放は権力奪取すなわち暴力革命によると主張するに至ります。それがブリュッセル時代の著作です。
マルクスは革命組織づくりに乗りだし、プルードンに期待を掛けましたが、彼は「平和的方法で資本主義は改良できる。革命組織など必要ない」と拒絶しました。『哲学の貧困』はそのプルードンを批判し、「革命とは暴力的な闘争である」と断じたものです。
1847年秋、ドイツ人の亡命者がロンドンに結集して「共産主義同盟」第二回大会が開かれます。同大会に参加したマルクスは共産党宣言の起草を思いつき、翌48年2月、「一個の妖怪がヨーロッパに徘徊している。共産主義という妖怪が」で始まる『共産党宣言』を発表。こうして欧州全土で「1848年革命」が巻き起こります。
マルクスの心理的衝撃(怒り)はついに「暴力革命」に至りヨーロッパに徘徊し始めたのです。


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