思想新聞2004年3月1日号【勝共理論】マルクス人間疎外論4
ユダヤ人家庭の葛藤(主体的精神的条件)とヘーゲル左派の感化(対象的社会環境条件)がマルクスにとっての「第一の心理的衝撃」とするなら、ベルリン大学卒業後の社会的挫折と結婚をめぐる家庭的葛藤が「第二の心理的衝撃」と言えます。これがマルクスの思想形成に大きな影響を及ぼしました。
彼の24~25歳の出来事でした(1842年4月~43年10月)。「(この時代こそ)マルクスの観念論から唯物論への、また革命的民主主義から共産主義への移行が現れている」(レーニン)のです。卒業後、マルクスはケルンの新興ブルジョアらが作った「ライン新聞」の主筆に迎えられ、自由への理想に燃えて論陣を張ります。
当時、プロイセンでは4年ぶりに州議会が開催され、議会議事録の公開や出版の自由をめぐって論争が巻き起こっていました。マルクスはヘーゲル左派の一員として哲学論を振りかざしますが、現実問題の解決に何ら役立ちませんでした。
とりわけ保守系新聞「アルゲマイネ・アウグスブルグ新聞」とのフランスの社会主義や共産主義をめぐる論争で彼は共産主義への自らの無知を痛感します。さらに森林盗伐や土地所有の分割についてのライン州議会の討議、自由貿易と保護関税に関する議論などでヘーゲル哲学の無力さも痛感します。
そんな中、プロシア政府は左派色を強める「ライン新聞」の弾圧にかかり、ついに廃刊に追い込みます。この出来事を通じてマルクスは国家への憎悪心を高めたのです。
そうした時期、母はマルクスに対して38年になくなった父の遺産分配を拒絶、またトリールの同級生の姉であるイェニーとの結婚にも猛反対し家族との亀裂が決定的となります。こうして彼は孤独感を一段と強め、私有財産に対する反感も募らせていったのです。
こうしてマルクスは73年10月、祖国に見切りをつけてパリに亡命します。この「第二の心理的衝撃」が思想形成に陰を落としました。


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