思想新聞 2000年11月1日 主張
さる10月16日に行われた長野県知事選で政党の支持を受けない無党派候補である作家の田中康夫氏が当選したのに続いて、22日の衆院東京21区の補選で同じく無党派の川田悦子氏が当選し、国民の政党不信が改めて浮き彫りにされた。政党政治は未曾有の危機状態にさらされているといえよう。
長野知事選と東京 衆院補選の「惨状」
長野県では今期で引退する吉村午良氏が副知事から知事になり、じつに41年間にわたり「官僚出身県政」が続いたことで、県民がオール与党の副知事候補に引導を渡す形で、11万票以上の大差をつけて田中氏が当選。だが、それにしても自民党をはじめ政党がいかに無力だったか、政党不信を見せつけた。
田中氏は自らの女性関係など私生活を雑誌に連載するモラル面で問題がありすぎ「クリントン以下」(県民)との批判があった。にもかかわらず当選したのは、県政にそれ以上の問題があったか、それとも県民がモラルに鈍感なのか、いずれにしろ政党は陰が薄かった。
一方、衆院東京21区の補選では「共産党の隠れ候補」(自民党・野中広務幹事長)とされた川田悦子氏が当選した。自民党、民主党、社民党の公認候補を破ったことから無党派の勝利とされているが、タレント並みの有名人なら背後に共産党がいても無党派で勝てるという有権者の政党離れを証明した格好である。有権者の六割が棄権し投票率が40%。前回の選挙で民主党候補が圧勝したものの、この人物の逮捕・辞職に伴う補選で有権者が白けていたという側面もある。しかし、政党の無力さはここでも顕著だったことは否定できない。
なぜかくも政党は信頼されないのか。政党が本来の政治の使命を果たしていないからだ。とりわけ政治のリーダーシップのなさに国民の失望が大きいことを政党人は自覚すべきだ。
いまほど政治のリーダーシップが問われているときはない。行政は「決められたこと」を速やかに行う機関であり、「決めること」は政治の範疇に入る。そもそも「官主導」とは形を変えた現状維持にすぎず、「行政硬直化」の打破を「官」に期待すること事態が主客転倒である。その意味で長野県に言われるような「行政硬直化」が存在したとするなら、本来、政治を担うべき政党が変革していかねばならなかった。それが政党の使命である。
様々な分野でいわゆる制度疲労をきたし転換期に直面している現在においては、進路・ビジョンが問題になる。それを指示し決断を下して実行に移す、つまりリーダーシップを発揮することが政治に求められている。
政党や政治家のリーダーシップは元来、民主主義と両立しないとされてきた。そもそも極限のリーダーシップは独裁であり、それを排除するのが民主主義であるからだ。ところが、巨大で複雑化した現在社会においては、民主的手続による意思決定は途方もない労力を使い、利害調整は至難の技となる。それを放置すると、利害と利害が衝突するばかりで、社会は成り立たなくなる。こうした混乱に陥った社会は一般的に衆愚政治による欲望大衆社会と称される。安逸な民主主義社会が陥りやすい社会がそれである。
民主社会において国民が自らの利害のみを主張し徒党を組めば、徒党と徒党が争う無法社会に陥ることは必然である。こうした衆愚社会から逃れるためには、利害対立を調整して国民全体のコンセンサスを形成する政治集団がリーダーシップを発揮することが必要不可欠だ。それが徒党ではない政党と呼ばれるべき存在なのである。
人の体でたとえれば、神経のようなものだ。交感神経と副交感神経が絶妙のバランスで体の全体を見据えて方向や調整を行っているように、政党が理念、綱領、政策、主張といった「ビジョン」を国民に提示し、互いに競いあってこそ、健全な民主主義社会の発展が保障される。政党とはそれほど重要な存在なのである。
政治のリーダーシップ否定する無党派旋風
こうした視点に立てば、無党派旋風は何ら誇るべき現象ではない。それどころ、政党不信は政治不信と直結しており、それは政治のリーダーシップの否定を意味し、つまるところは政治の液状化現象、いわば神経の切断につながっていく。
もちろん、そうした現象を生み出している第一義的な責任は政党側にある。理念や政策ビジョンを共有していない政党が数の論理で安易な「連立」を組んで与党を形成する一方で、これを拒むのに審議拒否という議会制民主主義を否定するかのような対応に終始する野党ではとうてい政治の復権はあるまい。
こうしてもたらされる「政治の膠着」化により、国民は政党嫌悪感を強めている。無党派旋風に喝采する政治風土が21世紀にまで継続するようなら、日本はいつまでも未来ビジョンが示されず、大転換時代の孤児に陥ってしまうだろう。


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