国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 最新の主張はこちらから

File-85 生命尊厳の核となるべき「愛」

思想新聞2003年8月15日号 共産主義は間違っている!!

摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 39

エゴイズムの対極にある「喜び」の真髄

存在神秘の知覚が契機に

Q 「存在根拠としての愛」の疎外ですか、難しいですね…。「産む産まないを決めるのは女性の勝手」というモノと見る価値観についてもう少し。「女性の出産にかかわる自己決定権」(リプロダクティブ・ライツ)では、明らかに「二重基準」(ダブルスタンダード)になっていますね。そもそも国連憲章などでは当然ながら「生命」「人権」を尊重することを謳っている。しかるに、母体に宿る「胎児」という存在には、「人権」がないのでしょうか。
 
A 今日び、ペットをはじめ動物の権利(アニマル・ライツ)をさえ認めろという風潮です。その「過剰」な流れが逆に「職業蔑視」を生むという歪んだ情況を作り出しているということを、先に呉智英氏の指摘を挙げて紹介しました。では「生命の尊厳」とはどこまでさかのぼるべきなのか。
 結論から言えば、やはり「愛」ということになるでしょう。表現を変えれば、人間は「愛情に飢えた動物」ということができると思います。
 人間は欲求をもった存在です。欲求が実現すれば心は原則的には充足します。しかし人間の成長過程でのいわゆる「反抗期」には欲求をコントロールするすべを覚えるのですが、モノを与えることなどによって欲求のすべてを充足させてしまったり、あるいは逆に「反抗期がない」という子供は、自分でまったくコントロールできなくなってしまうという事態を招いたりします。ですから三歳以降は、もちろん「愛情」をかけることも必要ですが、「規範教育」が必要とされるゆえんです。
 もっとも、言葉を変えれば、「しつけ」などの規範教育も愛情表現の一つであるはずです。
 子供が欲求をコントロールできなくなってしまうと、善悪の判断がつかないのはもちろんのこと、欲求そのものがどんどん肥大化、エスカレートしていきます。そのような状態では、恐らくいくら欲求が実現したとしても、子供自身が「充足感」を感じることはありません。規範教育はそうした中で「足るを知ること」へのプロセスにほかならないと言えます。
 C・G・ユングの研究者には父性愛と母性愛の必要性を訴える学者が多いのですが、特に「父性愛の欠如」が、子供にコントロールすることを不可能にし規範意識が醸成されないということにつながります(林道義『父性の復権』参照)。
 このようなことを十分に考慮に入れて、人は親となって子供を養育していかねばならないと言えるでしょう。確かに、子供の教育は大変な労力と愛情を傾けなければいけませんから、単純に「じゃあ子供は要らない」となるでしょうか。そうならないのは、子供を生み育てるのが何よりも代え難い「喜び」だからにほかなりません。例えば母親が「育児疲れ」で幼児虐待に走ってしまうのも、母親が自身をコントロールできなくなっている。ということはつまり一時期「アダルトチルドレン」という言葉が言われたように、彼女が親の愛情を円満に受けてこなかった、と言えるのではないでしょうか。
 ところで、古代のギリシアでは、哲学という営みの「事始め」は「存在への驚き」(タウマツェイン)にあるとしました。つまり、「僕/私という存在がある」「宇宙や地球が存在している」という、いわば「気づき」であり、「感動」です。「直観」と言えるかもしれません。そうした「気づき」というものは、何も古代ギリシア人に限らず、現代の私たちの間にだって経験することがらです。これは「存在神秘の知覚」とも言えます。
 私という生命はどこから来たのか――。日常の生活感覚を離れ、このように考えることも、一つの「存在神秘」の知覚と言えるでしょう。このような「気づき」は、「存在根拠」を探る上での重要な契機となります。
 確かに、「人間は水とタンパク質などの化合物から構成されている」と考えるのと同様に、「両親の精子と卵子との結合によって生じた」などと考えられるでしょう。しかしそれは一側面では正しいかもしれませんが、それをもって「存在根拠」と言えるでしょうか。親にとっては子の「存在そのもの」が喜びであり、愛の最も根源的な精華ではないでしょうか。それはエゴイズムの対極にある「与えることによって得られる」喜びだからにほかなりません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました