第二段階
国際共産勢力は75年春にインドシナ3国を共産化し、さらに78年にかけてエチオピアやモザンビークなどのアフリカや中米ニカラグアで共産国を次々に樹立、自由陣営への攻勢を一段と強めてきた。そして79年にはソ連がアフガニスタンを軍事侵略するに至った。これはニクソン米大統領が失脚し、ベトナム戦争で疲弊する米国の隙をついたもので、この危機は遠からず東アジアに波及するのは必至だった。ソ連は太平洋艦隊をはじめとする極東ソ連軍を大増強し、日本周辺において覇権を確立しようと積極的な動きを見せた。 現代の戦争は総合戦であり、直接的な軍事的侵略を行う前に、スパイ工作や思想工作など複合的な戦略が行使されるのが常識で、したがってソ連の直接侵略に対抗する以前に間接侵略への備えが不可欠となる。そこで本連合はこうした危機に対処するために78年にスパイ防止法制定3000万人署名国民運動を展開。79年に設立されたスパイ防止法制定促進国民会議に加わり、都道府県会議を全国で設置し、地方議会における同法案制定請願運動の先頭を切って奮闘した。 このようなソ連の間接侵略を防止する運動に真っ向から反対したのは、言うまでもなく共産党や社会党の共産主義勢力であり、したがってスパイ防止法を制定するには全国各地で勝共運動を拡大していくことが焦眉の急となった。そこで81年、東京を皮切りに「日本の平和と安全を守る大会」を全国で開催、82年には地方の有力者たちが共産勢力と戦う組織づくりを行おうと勝共支部を結成、また会員拡大を行った結果、84年には700万人会員を達成した。 一方、韓半島では83年、ソ連による大韓航空機撃墜事件や北朝鮮によるラングーン韓国閣僚爆殺事件などが相次ぎ緊迫の度を強めてきたため、韓国勝共連合は8大都市大会を開催、文鮮明師が日韓米の一体化によって国際共産勢力の浸透を防ぐことを訴えた。
これを受けて84年に日韓安保セミナーを開催し、両国の勝共支部が姉妹結縁を行って日韓一体化による勝共基盤を強化。ソ連や北朝鮮の侵略を防備した。 さらに各界に浸透している共産勢力を一掃するために、財界人を中心にした「勝共運動を応援する会」や学者文化人による「全国 教授勝共講師団」、自衛隊OBや防衛関係者による「勝共国民運動の防衛問題に協力する会」、国会議員による「勝共推進国会議員」などを結成し、幅広い国民運動を展開した。 このように日本国内における勝共国民運動と韓国と連帯した国際連帯運動によって東アジアの危機を防ぐため成果を挙げた。しかし、ソ連を中心とする国際共産勢力を駆逐し、勝共の目的を達成するには、自由陣営の盟主である米国がベトナム戦争の自信喪失から脱却し、世界平和のために立ち上がることが不可欠である。 このため米国における勝共運動は米国内の民主党に巣くっている容共勢力と全面的に戦い、80年の大統領選挙ではレーガン当選に全力を挙げた。レーガン大統領のもとで82年に「ワシントンタイムズ」を発刊し、中南米の勝共運動であるCAUSA(アメリカ社会統一協会連合)を通じて、共産国ニカラグアの自由戦士を支援。またレーガン政権の軍事力増強、とりわけ戦略防衛構想(SDI)の実現を強く支持した。中南米ではCAUSA運動によって26カ国からなる国家連合機構「ラテンアメリア統一連合」(AULA)が結成され、米国では保守陣営が結束して「アメリカ自由連合」(AFC)がつくられレーガン政権の支持基盤となった。 ここに強い米国が復活、ゴルバチョフソ連書記長は新思考外交やペレストロイカに転じざるを得ず、「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄。その結果、89年11月に「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧は共産主義の縄目から脱することができ、90年には東西ドイツが統一、91年にはソ連邦が解体され、国際共産主義の脅威が消滅することになったのである。
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