国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1898号 (令和8年5月1日)

人間の根源を問う教育を 己の根源の自覚から真の目標へ

思想新聞2002年5月1日【視点論点】

摂南大学教授
渡辺久義氏

「宗教教育」や「道徳教育」が今の日本に必要と考える向きはあるかもしれないが、それでもこれをタブー視する風潮は依然根強い。これは社会全体こぞっての責任回避と言える。しかも、そこには都合のいい大義名分がある。「押しつけはごめんだ」という戦後民主主義の伝統的思想である。
 それはちょうど、外敵に攻め込まれた際、非暴力平和主義を掲げ戦うことを拒否するのに似ている。もし日本国民全員がこの理由を押し立てて戦いを拒否したらどうなるか。「押しつけはごめんだ」とは「宗教教育や道徳教育などは、必ず特定の人の特定の価値観や偏見を教え込むことだから、それは公教育でやるべきではない。子供の自由を尊重しなければならない」という意味であろう。
 私の通勤途上にある公立高校では「自律、自学、自練」と大書した垂れ幕が下がっていて、通る度に首を傾げる。学校の「教育放棄宣言」のように読めるからだ。恐らく、生徒の自主性を促し、やる気を出させるための標語のつもりだろうが、どうしても教育放棄の意を読み取らざるをえない。
 自主性尊重という名の教育放棄である。「自律」というのは、自分で善悪を考えて自分の責任において行動せよ、ということだろうから、これはよく言われる「自己決定」に当たる。
 あくまで子供の自由を尊重するなら、国語も算数も強制してはいけないことになる。国語や算数はいいが、宗教や道徳を教えるのは価値観教育だから、押しつけることはできないと人々は言うであろう。しかしこれははっきり言って、何重もの無知と偏見による誤った考え方である。しかも、そこには責任回避のためのごまかしがある。
 子供がすでに立派な価値観をもって立派に生きているわけではない。生きるのに価値観など無用だという人はいまい。価値相対性などという戦後の世界を混乱させた一見もっともらしい愚説に惑わされてもいる。さらに、科学は自然そのままの客観的知識だが、宗教や道徳は人が勝手に考えたものだから、そんなものを教えるわけにいかないという、あまりに素朴な無知がそこに働いている。
 そもそも徳育を無視した知育偏重は教育の名に値しない。さらに言えば、知育と徳育を分けられると考えるのが間違いなのだ。「知徳」という不可分一体のものと考えて全人的教育をするからこそ、教育の効果があがる。これが別々のものなら、学ぶ側も教える側も、真の動機づけがそこにないから熱が入るということがありえない。
 先日、私の大学で某予備校を借りて入試を行った。そこには受験間近の予備校生のためのポスターが何枚も貼ってあり、それには「勉強し~や」と関西弁で一言だけ書いてある。これを見て苦笑したが、それは、いかにこの社会に勉学の動機というものが欠落しているかを、端的に表現していたからだ。仮に、自分のためだから「勉強し~や」と言われて、本当に納得する若者はまずいないだろう。
 若者は何のために勉強をしなければならないかが分からない。教師も親も政治家もそれを示してやることができない、それがわが国の実情だ。いわゆるハングリーな発展途上国であれば、勉学の動機は総じて、知識を得て立派な職に就き金持ちになり、それで社会にも国家にも貢献するということだ。わが国でも明治時代はそうであった。立身出世が国家のために尽くすことだったのだ。また戦後は、経済大国になるという暗黙の国家目標があった。
 今、若者を含めた我々全体が、目標を見失ったように見える。しかし従来の目標は、実は本当の人間としての目標ではなかった。本当の目標は今初めて見えてきたと考えるべきなのだ。
 目標をなくしたように思える今こそ、「人間とは何か」「生きる目的は何か」という問題と取り組むための好機が、我々に与えられていると考えるべきである。私は宗教教育というものを不可欠と考えるが、「宗教」というものが一般にあまりにも浅はかに解釈されがちな上、「宗教」を特定の宗教から厳密に切り離すこともできないのが事実だから、宗教という言葉をなるべく使わず「人間とはそもそも何か」「何のために生きるか」という形で宗教的問題に迫る方が賢明ではないか。宗教とは詰まるところ、己の根源の自覚の問題だからである。
 純粋に自分のために勉強せよと言われても心から意欲が湧いてこないのはなぜか、と問うてみるだけでよい。それは人間がもともと自分のために生きるようには作られていないからだ、という答えが出せるだろう。これは人間についての法則的事実だ。それを互いに納得し合うだけでも、宗教教育への通は開けるのではないか。(協力=世界思想、文責=編集部)

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