国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1896号 (令和8年4月1日)

人権栄えて道徳滅ぶ 権利の羅列で義務を軽視

思想新聞2004年3月15日号【憲法改正そのポイント】5

 かつて「憲法は日本人をどれだけ悪くしたか」という特集を組んだ月刊誌がありました(『新潮45』九七年一月号)。 その中で文明評論家の福田和也氏は「なぜ日本人はかくも醜くなったのか」と問い「若者だけじゃない。マイナイを受け取る役人から、子供をデモに連れ出す主婦まで、いまの日本にゃ正視にたえない輩ばかり。これは全て平和憲法五十年の成果」と述べています。

肉体の価値だけの醜い日本人に

 福田氏によれば、憲法で象徴される「何が何でも(肉体の)生命が大事なのだという発想が、あらゆる領域にゆきわたって、すみずみまで浸透してしまった結果」、肉体以上に価値を認めない醜い日本人となった。そうした価値観の「破壊」が日本社会全体を覆っているというのです。
 京都大学名誉教授の勝田吉太郎氏は「人権栄えて道徳滅ぶ」と、次のように言います。
「私とて人権が人間的尊厳と人格性を支える必要な理念であるとは心得ているのだが、現今のいささか過剰な人権主張時代の世相をみるにつけ、たんなる人権の承認よりもずっと重要なもの、つまり互譲の精神とか他人に対する思いやりを愛の心、一言でいって道徳というものが忘れられていのではないか、と思わざるをえないのだ」(『平和憲法を疑う』講談社)
 こうした指摘からさらに年月を重ね、今、現行憲法は一層、問題点を露呈させています。先に地下鉄サリン事件などで二十七人もの無辜(むこ)の人々の生命を奪ったオウム集団の松本智津夫被告に死刑判決が下りましたが、初公判から実に七年以上も経ての判決でした。それは被害者の人権を棚上げにして加害者の人権ばかりが配慮された結果と指摘されています。「人権過剰憲法」を象徴するのがオウム裁判でしょう。
 憲法第3章の「国民の権利と義務」は、第10条から40条まで31カ条によって成り立っていますが、権利は22カ条あるのに、義務はわずか3カ条しかありません。権利については、生命・自由・幸福追求の権利(13条)をはじめとして、公務員の選定罷免権(15条)、請願権(16条)、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)、労働の権利(27条)、労働の団体権・団体交渉権・団体行動権(28条)、裁判を受ける権利(32条)と続きます。
 さらに奴隷的拘束及び苦役からの自由(18条)、思想および良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、集会・結社・表現の自由(21条)、居住・移転・職業選択の自由(22条)、学問の自由(23条)と、自由が続きます。
 このうち第31条から40条までは「何人も現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない」(第33条)といった具合の刑事訴訟法に関する規定です。刑事訴訟についてこれほど多く羅列した憲法は世界に希です。

19世紀的国家観で権利を並べる

 これに対して義務は、教育の義務(26条)と勤労の義務(27条)、そして納税の義務(30条)の三つだけです。これでは勝田氏ではありませんが、人権が人間的尊厳と人格性を支える必要な理念であるとは心得ていても人権過剰社会と批判せざるを得ないでしょう。
 終戦直後、内閣法制局でマッカーサー草案の翻訳に携わった故・井手成三氏は「(GHQは権利について)あれもよい、これもいれておこうと思いついたものを筆にしてしまったと考えられる。十九世紀的な自由権思想、近代的な社会権思想などを充分にかみこなした上で大系づけがなされていない」(『困った憲法・困った解釈』時事新書)と指摘しています。 当時のGHQは日本の「民主化」ばかりに目を奪われ、国家と国民を対立的に捉え、国家権力は国民の基本的人権を侵害するとした十九世紀的な国家観に基づいて憲法草案を作成、それを現行憲法に盛り込ませたのです。権利が羅列されているのはそのためです。

基本的人権を重複して明記

 第11条で「(基本的人権は)侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」とありますが、これでも不十分と考えたのか、第10章「最高法規」第97条にも「(基本的人権は)人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とうたいあげます。
 こうして執拗に人権が叫ばれ、道徳や義務感がないがしろにされて、人権天国が現出したのです。人権と「公共の福祉」の整合性を改憲によって図らねばならないでしょう。

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