国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1896号 (令和8年4月1日)

政教「完全分離」の愚 文化抹殺に悪用される

思想新聞2004年4月15日号】憲法改正そのポイント7

 小泉首相の靖国神社参拝に対して4月7日、福岡地裁は憲法違反の判決を下しました。原告の損害賠償請求を退けながら、法律的には必ずしも必要ない参拝違憲の判断を下したのは何とも不可解です。国は勝訴したので控訴できず、この違憲判決が確定してしまうというのですから。

まかり通った靖国違憲判決

 この判決は憲法解釈を曲解しています。昭和52年の最高裁判決(津地鎮祭訴訟)は「目的・効果基準」という政教分離の解釈を示し「国と宗教の完全な分離は不可能」であるとの認識に立って「目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教への援助、助長または圧迫、干渉などになる行為」については許されないとしました。
 靖国参拝は首相自身が再三述べているように、戦没者の慰霊のために行っています。首相には靖国参拝で「信者」を増やそうとか、他の宗教を圧迫する意図はありませんし、そうした結果もありません。それを違憲と判断してしまうのですから、首を傾げます。こんな不可解な判決がまかり通るのは憲法そのものに欠陥があるからです。
 憲法20条は第1項に「信教の自由は、何人に対しても保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と、まず信教の自由を規定し、その上で政教分離をうたい、第2項の「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」、第3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と続きます。
 信教の自由とは、第一に内心における宗教上の信仰の自由を指し、前条(19条)の思想・良心の自由の一部をなすもので、普遍的な基本的人権のひとつです。信教の自由が保障されるとは、ある特定の宗教を信じる自由、さらには信仰について沈黙の自由も保障され、布教、礼拝、儀式その他の宗教的行為を行う自由も保障されることを意味します。20条はこうした信教の自由を主たる目的としています。
 そして、この信教の自由を保障するために、その効果として、つまり目的どおりのよい結果が得られるように、1項後段と2項、3項の政教分離の規定が設けられているととらえられます。これが近代国家における政教分離の本来の意味です。
 ところが、現行憲法は戦前の国家神道を否定せんがために、ことさら神経質にまで前述のように行政法規のごとく子細に政教分離を規定してしまいました。その結果、本末転倒した解釈がまかりとおる歪みが生じ、政教の「完全分離」があたかも憲法の目的と誤解されてしまいました。福岡地裁判決がそうです。
 いずこの国にも「政教完全分離」などありません。古今東西の文明の基礎には宗教があり、宗教がその国の伝統文化を培ってきたからです。信教の自由を保障するために、その効果とし政教分離があるのであって、何がなんでも「信教の自由イコール政教分離」では決してないのです。
 実際、アメリカでは聖書に手を置いて大統領就任宣誓式が行われ、イギリスではマグナ・カルタ以来、アングリカン・チャーチ(英国・国教会)を国教に据えています。国王の戴冠式も葬儀も、すべて国教会の儀式で行われます。ウェストミンスター寺院には「無名兵士の墓」があり、国賓として訪問した元首らはここに献花します。スペイン憲法(6条)はカトリックを、ギリシャ憲法(1条)はギリシャ正教を、タイ憲法(5条)は仏教をそれぞれ国教に定めています。しかし、いずれの国にも信教の自由があり政教分離違反と批判されません。
 現在の奈良県天理市はかつて「山の辺市」といいました。それが「天理市」になったのは、ここに本部を置く天理教が大きな影響を与え、市民が発意して改称したからです。この天理市の市名は憲法20条に違反しているのでしょうか。この市名は特定の宗教団体を支援するものとして訴訟が起こされたことがありますが、奈良地裁はこれを却下しています(76年9月)。

曖昧な表現で誤解、曲解も

 にもかかわらず、こうした訴訟が起こされるのは現行憲法の表現があいまいで、信教の自由とその効果のための政教分離の意味を誤解、あるいは曲解されるからです。こうした歪みから「社会習俗」(古くからの生活様式)までもが政教の「完全分離」の対象にされかねません。現に学校給食で「合掌」するのは違憲との主張もあります。これではまるで中国の文化大革命です。
 このままでは私たちの生活から宗教を背景とする伝統文化が一掃されかねないのです。これこそ左翼・唯物論者の狙いです。日本を共産国に陥れないためにも憲法改正が焦眉の急なのです。

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