構造主義とフロイト思想でエンゲルスを批判
思想新聞12月15日号 シリーズQ&A 共産主義は間違っている!!
フェミニズムの仮面を被ったマルクス主義 8
性差を〈対幻想〉と断定
国家とは「幻想化された性」か
Q 吉本隆明氏の『共同幻想論』は、フェミニズムはともかく、家族や夫婦に対しても、何らかの言及をしているのですか。
A 故・中上健次は同書の「解説」の中で、「丁度60年代末、この『共同幻想論』は街頭での一群の人々による暴力の噴出と共に共同幻想としての国家を露出させ、来たるべき事態を予告し、何にも増して国家とは性なのだと、国家は白昼に突発する幻想化された性なのだと予言した。性が対幻想として読まれ共同幻想に転移していくという見ようによっては十全にアジア的(農耕的)なこの書物の出現は、歴史的に言えばほどなく起こる三島由紀夫の割腹自決と共に60年代から70年代初めにかけての最も大きな事件である」とコメントしています。この中上健治の解説は、偏ってはいるものの『共同幻想論』の理解としては、的を得たものと言えるかもしれません。
この『共同幻想論』自体も、構造的に見れば、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』に倣っていると言えるでしょう。実際に吉本氏は、批判的にではありますが、このエンゲルスの著書の引用を随所にしています。モルガン(エンゲルスの著書の種本の著者で、ネイティブ・アメリカンの部族の研究で原始乱婚制を主張した)=エンゲルスの主張を全体的には否定しながらも、フロイト及びレヴィ=ストロースの家族観に軍配を揚げているのです。ですから、吉本氏とフーコーらの構造主義との関係を指摘する声も少なくありません。
この吉本氏が〈対幻想〉と名づけるものこそ、夫婦の関係や性差と呼ばれるものです。それにしても、この「幻想」という名づけ方というのは、非常に罪作りなのではないかということです。
果たして夫婦や家族の絆が「幻想」なのか、「クニ」という概念も幻想にすぎないのか、少し検証が必要なのではないでしょうか。
利他主義認識するのは家庭のみ
その手がかりとしてまず、「家庭は社交場」とした評論家・西部邁氏の文章を見てみましょう。
「文明が進むにつれて利己主義者が多くなる、それは不可避のことだと思われている。しかし人間が根源的には、利他主義者であることを知らされるのは、家族においてである。つまり、その小さな人間関係の束の中で人は相手のことを気にかける。夫の立場からすれば、妻のこと、両親のこと、子供のこと、そして兄弟姉妹のことを順に配慮する。
もちろん、その配慮は、家族の場合には明らかに身体言語を含めた広い意味での言葉によってなされている。その言葉による配慮の流れの最後になって、そのように配慮の言葉を紡いでいる『自分』というものが存在していることに気づく。言いかえれば、人間が利己的存在であるとしても、それは他者に配慮するという意味での利他の振る舞いの最終段階に現れるのである。そのことを家族という社会構造及び家庭という社会空間が体得させてくれる。
そうしたものとしての家庭が壊れていくとき、人間はエゴイストに育っていく。実際、理不尽な凶行に及んでいる青少年のほとんどが、壊れた家庭から出てきているのである。したがって、人間の本性がエゴイスティックかどうかではなく、文明が必然的に家庭を破壊するものであるかどうかが問われるべきなのである。なるほど、働き手における職住の決定的な分離、情報媒体から発せられる休みない享楽への誘い、学業成績による人間の篩ふるい分け、少子化と高齢化、飢えからの解放、などといった文明の『成果』は、可能性としては家族の構造を不安定にさせる。つまり人間は文明の発達とともに、病的なまでに鋭い自意識を持たざるをえなくなり、その自意識の過剰が家庭を壊すのである」(『国民の道徳』)


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