「天皇制廃止」を明記
思想新聞 2000年12月15日号
実録・日本共産党 13 その歴史と恐るべき素顔を探る
日本共産党の「戦前編」に続き「戦後編」がスタート。一網打尽にされた共産党員には政治犯のみならず宮本顕治など刑事犯もいました。その本性が再び露わとなるのは間もなくのことです。
ポツダム宣言で思想犯が釈放に
1946(昭和21)年4月の総選挙で6議席を得た共産党はその勢いをかって5月一日の戦後初のメーデーに臨みます。
11年ぶりのメーデー復活です。
その参加者は東京で50万(全国で250万)人と伝えられます。19日には党の先導で万の民衆が皇居前広場に結集。米よこおこせ「食糧メーデー」を行ない、「朕はタラフク食っているぞ、ナンジ人民飢えて死ね」などとの不穏なプラカードを連ねて皇居に押しかけました。食料メーデーはGHQ連合国軍総司令部の命令で収拾されますが、徳田球一らは首相官邸に座り込み、吉田茂に組閣断念を要求したりしました。
しかし5月末に吉田茂内閣(第一次)が成立しますと国会の焦点は憲法の改正になります。この国会は第90回帝国議会で俗に憲法議会と呼ばれることになります。
国会で憲法に反対の共産党
国会にはマッカーサー草案を下敷きにした現行憲法案が提出されますが、それに真っ向から反対したのが共産党です。とりわけ天皇条項と9条に共産党は異を唱え、その代案として6月に「日本人民共和国憲法草案」を発表します。この憲法草案は共産党はいまだ放棄したとは言っていません。
おそらくこれが共産党のめざす日本人民共和国の青写真なのでしょう。
事実日本共産党中央委員会出版局から1996年11月5日に発行した『日本共産党綱領文献集』には日本共産党憲法草案の全文が掲載されています。
同法案は天皇制廃止を「日本人民の民主主義的発展と幸福の真の保障となる」と位置付けて第2条に「日本人民共和国の主権は人民にある」として天皇制廃止を明確に打ち出しているのが特徴です。
その中身は「ソビエト社会主義共和国同盟憲法」(スターリン憲法)と瓜二つでまさに日本を人民共和国化しようとする共産主義憲法です。ですから「人民軍」の創設を目論んでいました。
憲法議会で共産党を代表して野坂参三は「憲法第2条」は我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それ故にわが党は民族独立のためにこの憲法に反対しなければならない」(同8月24日衆院本会議)と憲法反対の演説をぶちました。それがいまでは「護憲の党」などといっているのですから噴飯ものでしょう。
さて1946年から47(昭和22)年にかけて「日本農民組合」(日農46.2.9)「全日本産業別労働組合会議」(産別46.8.19)「全国労働組合連絡協議会」(全労連47.3.10)などが共産党の指導下で次々に結成されます。これら労組は戦犯の追求、米よこせ闘争、隠匿物資の摘発闘争、生産管理闘争(工場占拠)農民の土地解放闘争などを全国で繰り広げました。1947年6月には結成された労組の総数およそ1万2千、成員368万に膨張することになります。
この波に乗って共産党は1947年1月6日~9日にかけて第2回全国協議会を開催し、その席上、徳田球一書記長は「ゼネストを拡大して全国の政治経済秩序を大混乱に陥れ人民協議会を使ってその収拾を図り、一切を人民管理のもとにおき民主人民政府をつくる」と報告。
「民主人民政府」は総理大臣に松本治一郎、内務大臣に徳田球一を任命するなど共産党の入閣名簿まですでに内定していたと伝えられます。
この腹案のもとに1月18日全官公共闘は2.1スト宣言を行ない、これに全逓や全闘加盟の各単産も加わることになり、参加人員450万という未曾有の規模に膨れ上がりました。マッカーサーはこれら一連の社会騒乱の動きに対してかねてから厳しい態度で臨んでだしました。2.1ストはとくに著しい社会不安を呼び起こすことが想定されたので1月31日ついにスト中止を命令します。この時を境に共産党は次第に反米新ソの姿勢を深めていくようになります。
