思想新聞2002年9月1日号 共産主義は間違っている!!
摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 17
「人権の根拠」相対化の陥穽
ひ弱な自我を「大量生産」
Q ロールズが言う「人権」には自明とみなされる「根拠」など存在しないということは、つまりどういうことになるでしょうか。
A ロールズの指摘は、徹底して「人権」の根拠を相対化したものです。宮沢憲法学にはまだ「尊厳性」の根拠を示そうとする姿勢があった。でも、それではまだ西欧的な思考の枠組みから抜け出せない。だからさらに相対化させた。そうしなければ、宗教や文化・歴史によって捉え方が変わってくる、と見なしたからです。
ところが、このロールズのように、あまり「人権の根拠」の相対化を徹底させると、論理学で「トートロジー」(同語反復)と呼ぶ事態に陥ります。つまり、意味を成さないわけです。ですから、いわばイデオロギーの「色」に染まりやすいことになります。つまり、どういうことが起こるかというと、倫理も道徳もないわけですから、善悪の判断の基準はすべて「自分」となる。自分の判断(気分や感情の次元までも)があくまで「善」であり、それを阻害する要因はすべて「悪」になってしまうわけです。
中等教育の現場でも、「所持品検査の是非」をめぐり「生徒の人権侵害だ」とする声が大きく、バタフライナイフを所持した生徒に注意すると逆に「それって人権侵害じゃん」といい返され、教師が何も言えなくなったという事例もあります。
ここから実は問題点が見えてきます。「人権」についての議論とはそもそも、「人権の根拠」そのものが問題になっているのではありません。実は人権論者がそれを恣意的に利用しているにすぎないのです。
「共同体における相互の人間関係や社会的な戒律、歴史・伝統・慣習に基づく多くの道徳・倫理は、人々が自己利益の追求や自己主張をしようとしたとき、それを制してくれるブレーキの役割を果たすものであろう。しかし共同体、宗教、歴史・伝統が有するそのような『制約の原理』は、『人間の権利』としての『人権』の確立によって失われた。丸裸の『人間』に“闘争の論理”だけが与えられることになった」と八木秀次氏は指摘しています(『反「人権」宣言』)。
ドイツの哲学者カントは、「人間であることの尊厳性」は「自由」にほかならない、としています。ある人間の自由の行使は、別の人間の不自由になるという場合ェ往々にしてある。しかしながらカントは一方で「自律」ということを強調しているのです。「成熟した大人」という時、まさに己をコントロールすることのできる人格をさす場合が多いのです。
人間が人権根拠の相対化によって失ったものはつまり、「自制の原理」ということなのです。
この「制約の原理」こそ、すなわち「良心」にほかなりません。ソクラテスは「~してはならぬ」というダイモニオン(いわば良心)の声に従って「善く生きること」を説きました。
「注意されると『人権侵害』の声を上げる子供たちは『人権』イデオロギーの体現者であり、『人権教育』の優等生だ」として、そのメカニズムを、八木氏はわかりやすく解説しています。
《「道徳」が人の心の働きを規制する性質のものであるのに対して、「人権」は逆に人の心の働きを解き放つ性質を持っているが、問題は「人権」が、主張の内容を問わず、単に欲望だとか本能だとかのレベルにとどまるような「願い」をも肯定してしまうことにある。
…(中略)…現代の「人権教育」は、「自由で豊かで幸せな人生を送りたい」という「人間としての自然な願い」について、その理想像は何ら教えることはなく、というよりも「人権」概念自体がそのことについては何も想定していないのであるが、子供たちの未熟な情欲を駆り立て、その解放をもって善しとするメッセージを彼らに発している。彼らの情欲に基づく主張をも合理化し正当化するための口実を「人権」は与えてくれる。
そしてそのことが、社会生活や集団生活を送っていく上では不可欠な、ごくわずかな規制にも耐えられず、すぐに逆上して(キレて)しまう、ひ弱な自我を作り出しているとも言える。「人権」が情欲のままに行動することを個人の「自由」であると思いなし、わずかな規制にも耐えられないひ弱な自我を育てていっているのである。》(同書)


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