思想新聞2003年9月15日号 共産主義は間違っている!!
摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 41
殺人・狂気すら正当化する異常性
「パトスの知」の深淵
Q 「人間の獣性」ということで思い出しましたが、フランス構造主義者のアルチュセールは、妻を殺害したそうですね…。
A はい。フランス共産党のエリートであり、「構造主義四天王」の一人と呼ばれた彼が、いかにして発狂し、自分の伴侶を殺めたのか、ということは大変興味深いものがあります。というのも、先に述べたようにフーコーは「狂気こそが世界を変える」という趣旨の思惟をしているからです。ここまでくると、もはや「頽廃」という次元を超えた、危険思想にほかなりません。
ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは「選ばれた人間にとっては殺人すら許される」という哲学的信念で金貸しの老婆を殺害しました。大阪・池田小の無差別児童殺傷事件の犯人・宅間守被告も、親や社会への復讐としての犯行でした。良心の呵責にさいなまれないという意味では、この宅間の精神も「狂気」だと言えるでしょう。この判決に際し「人間の顔を被った獣」という表現がありましたが、人間と獣との区別は、どんな社会であれ必要である、ということの証左と言えるでしょう。
ところで1980年代日本で「ニュー・アカデミズム」と呼ばれた一群の知識人たちがいました。中沢新一、浅田彰、柄谷行人、栗本慎一郎といった人々です。蓮見重彦・前東大総長もその一人でした。それに先立つ全共闘全盛の60年代後半は吉本隆明、70年代には廣松渉、中村雄二郎、山口昌男といった人々が注目を集めました。
しかし現在、これらの中でも(廣松渉のような故人もいますが)、今もなお思想界、あるいは論壇において確固たる影響力を保ち健筆をふるっているのは、ごくわずかにすぎません。その意味では、やはり「現代思想」というものも、ポピュラー音楽と同様、やはり「モード」という名の「流行り廃り」から逃れられないものだ、という無常性を痛感させられます。特に、マルクス主義の挫折と実存主義の地滑り的凋落から、80年代は学生のノンポリ化が進み、いわば「知的スノビズム」(俗流主義)として、インテリ層の間には「ポストモダン」と呼ばれたフランス現代思想がもてはやされました。ラカン、アルチュセール、フーコー、ドゥルーズ、デリダら一群の人々の思想です。それを象徴したのが、『構造と力』が一大ブームとなった「浅田彰現象」でした。しかしそうした中、放送プロデューサー出身の中村雄二郎氏は、哲学的課題というものを、単に流行に飛びつくのとは異なるアプローチで巷間にわかりやすく提供したと言えましょう(台湾の李登輝前総統が中村著『哲学の現在』を高く評価したという)。
その中村雄二郎・明治大学名誉教授は、「パトスの知」を主張しました。この背景には、「知」という営みが「理性」(ロゴス)によってなされてきたのに対し、いわばその反動として、反西欧、反理性、反主知主義、反形而上学があります。
ギリシア語に由来する「パトス」という言葉は、「情念」「感性」と訳されます(対してロゴス=知、エトス=意と訳される)が、いわゆる心とか心情という言葉には当てはまりません。そこに「移ろいやすい」というニュアンスがあり、知性を重んじた古代ギリシア人の世界観が窺えます。
しかし、移ろいやすく変わりやすいのは「情念」と言えるのか。このギリシア的「感覚」に異を唱えたのが、フロイトの深層心理分析だと言えます。むしろ心の奥底において、人間の思考や発言、そして行動をすら「規定」してしまうほどの影響力を持っているのが、実は「パトス」なのではないか、と。しかし、問題はそのパトスは「本能性」「獣性」でしかないのか、ということです。
例えば、人が何か職業を志すとします。医者や宇宙飛行士、プロ野球選手になりたい――などと。その方向性を決定づけるのは、何らかの「動機」なのです。動機には「知的好奇心」もあるでしょうが、それ以前に動機となりえるほどの鮮烈な体験(西田幾多郎の「純粋経験」)、インパクト、そして「感動」があるのではないかということです。人をして感動せしめるものは、親や先人の生きざまなどあるでしょょうが、その最たるものはやはり「愛」と言えるのではないでしょうか。


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