思想新聞 2000年3月25日号 共産党 ここが間違い2000
共産党の不破哲三委員長は、著書の「レーニンと『資本論』」(新日本出版社)の中で、レーニンの暴力革命唯一論を批判しています。これを受けて一部マスコミは、共産党が柔軟路線を一層進めて革命路線を放棄するかのような記事を書いています。はたして不破委員長の「レーニン批判」は、日本共産党がレーニンと決別する徴候なのでしょうか。それとも国民を欺く高等な戦術なのでしょうか。その意図をさぐってみましょう。
「レーニンの使徒」だった日本共産党の78年の歴史
Q 不破委員長がレーニンを批判したなどと言いますが、共産党はソ連の創始者であるレーニンを今まで信奉してきたのが不思議です。いったいレーニンの思想とは何ですか。
A 周知のようにレーニンは「ロシア革命の父」です。1917年に世界で初めて共産主義革命を成功させ、ソ連を創設した人物です。
共産主義はカール・マルクス(1818~83年)とフリードリヒ・エンゲルス(1820~95年)によって作られましたが、彼らの時代には理論の域を超えませんでした。これを実現したのがレーニンですから、レーニンによって解釈され、あるいは再構築されたマルクスやエンゲルスの理論は、いわば共産主義者の“聖典”として重要視されてきました。
そこで20世紀の共産主義が長くマルクス・レーニン主義と呼ばれてきたのです。
では、レーニンが打ち立てた共産主義(レーニン主義)の考え方はどのようなものでしょうか。
レーニン主義は、第一には共産党を職業的革命家からなる戦闘的前衛党にしようとするところにあります。それが「民主集中制」と呼ばれる組織原則で、「鉄の規律」のもと、徹底した秘密主義で革命に当たろうというものです。
この考えは1902年に書かれた『何をなすべきか?』で明確に示されています。
この組織原則が共産国で「粛清」を生みだし、共産党員を含む多くの人々が死に追いやられたことは広く知られたところです。
第二には、戦闘的唯物論によって宗教の抹殺をはかろうとしたことです。これは1909年に書かれた『唯物論と経験批判論』や『宗教にたいする労働者党の態度について』に示されています。レーニンは宗教への妥協をいっさい排除し、徹底的に破壊することをめざし、事実、共産化されたソ連・東欧圏や中国では、幾千万の犠牲者を出しました。
第三には、共産革命の方法として暴力革命を唯一絶対化したことです。これは1917年の2月革命と10月革命の間に書かれた『国家と革命』のなかで示されています。10月革命が議会破壊、暴力革命として遂行され、民主政党や人士が追放・粛清されましたが、以降この方式が共産革命の公式となりました。
第四には、プロレタリアート独裁論、つまり共産党の一党独裁論を確立したことです。これも『国家と革命』に定式が示されており、これにしたがって世界の共産国は一党独裁政権となりました。
ロシア革命が成立して以降、このようなレーニンの考えを受け入れるかどうかが、共産主義者であるかどうかのリトマス試験紙とされました。その後、スターリンの一国社会主義論とトロツキーの世界同時革命論の対立や、ソ連を絶対化するか否かでソ連と中国が対立するなど、さまざまな論争が共産主義者の間でありましたが、レーニンの「四つの原則」が否定されたことはありません。
だから共産主義はレーニン主義とも呼ばれるわけです。日本共産党は党創立以来、78年間、これを忠実に守ってきたのです。まさに「レーニンの使徒」です。

レーニンの経歴
1870年 ロシア・シンビルスクで生まれる
87年 兄アレクサンドル、皇帝暗殺未遂で処刑
88年 『資本論』を読む
93年 マルクス主義サークルで活動を開始
97年 シベリア流刑
1900年 ジュネーブへ亡命
02年 『何をなすべきか』執筆
03年 ロシア社会民主労働党第2回大会でボリシェヴィキ結成
05年 ロシア第1次革命失敗
09年 『唯物論と経験批判論』執筆
17年 2月革命、『国家と革命』執筆、10月革命でソ連樹立
19年 国際共産党(コミンテルン)結成
24年 死去
共産党は暴力革命を否定したわけでは決してない
Q では、不破委員長はレーニンの考え方のどこを批判したのですか。それはレーニン主義と決別したといえるのですか…。
A 結論から言えば、レーニンの考え方のごくごく一部を批判しただけであって、レーニン主義と決別どころか、かたくなに堅持しているといったほうがよいでしょう。
不破委員長の「レーニン批判」として話題になったのは、今年1月4日付の党機関紙『赤旗』に掲載されたインタビューです。見出しは「レーニンはどこで道を踏み誤ったか」というもので、ここでレーニンの「強力革命絶対論」(共産党は暴力革命を強力革命と称しています)を批判したのです。不破委員長が長年にわたって著述してきた「レーニンと『資本論』」(全5巻)の中で書かれていることです。
そこには「(マルクスは)古い国家機構を『粉砕』『爆破』する場合もあれば、平和的・合法的な手段での国家機構のつくりかえが可能になる場合もある」としているのに、レーニンは前者のみを絶対化する誤りをおかしたと書かれています。
つまり、マルクスは政権の暴力的移行もあれば、平和的移行もある、と革命の“多様性”を指摘しているのに対し、レーニンは暴力的移行(強力革命)だけを唯一のものとして絶対化した、それが誤りだというのです。
ここで気をつけてほしいのは、不破委員長はけっして暴力革命を否定しているのではないということです。共産革命には暴力革命もあれば、平和的移行もあるのに、「暴力革命だけ」を唯一としたのはおかしい、と述べているだけなのです。
すでに述べましたレーニン主義の原則のほとんどは踏襲したままなのです。レーニンは「世界革命の司令塔」として1919年にコミンテルン(国際共産党)を結成し、翌20年の第2回大会で、有名なコミンテルン加盟条件(21カ条)を作り、これを共産主義者の「踏み絵」としたのです。
その加盟条件は 1.プロレタリアート独裁の容認 2.修正主義からの訣別 3.合法・非合法闘争の結合 4.民主集中制の採用──といったもので、日本共産党もこれを受け入れて党を創立しました(国際共産党日本支部=1922年)。
ここからもお分かりのように、不破委員長の「レーニン批判」は批判の名に値しないものです。レーニン主義の大半、つまり民主集中制(日本共産党規約第14条)、戦闘的唯物論(同規約第2条=科学的社会主義の学習義務)、プロレタリアート独裁論(日本共産党綱領)などを今も忠実に踏襲しているのです。

宮本名誉議長の革命路線の「敵の出方論」を今なお堅持
Q 共産党は宮本顕治名誉議長の敷いた路線を堅持しているということですか…。
A そのとおりです。共産党の現在の革命路線は、1961年に作られた「党綱領」に規定されています。この綱領は宮本綱領とも呼ばれているものですが、その大きな特徴は、「暴力革命唯一論」を排除すると同時に「平和革命唯一論」も排除するというもので、これが有名な「敵の出方論」なのです。
この方針を解説した宮本名誉議長の『日本革命の展望』に「敵の出方論」が展開されています。これを分かりやすくいえば、拳銃をもった泥棒が銀行に押し入って「金を出せ、おとなしく出せば拳銃を使わない、抵抗するなら撃つぞ」といっているようなものです。拳銃を使うか使わないかは「敵の出方」によるのです。だから、「暴力革命唯一論」も「平和革命唯一論」も正しくないというわけです。
不破委員長の「レーニン批判」は泥棒の論理である「敵の出方論」にしたがっているだけなのです。しかも、これは今日始まった話でなく、すでに70年代に開いた第12、13回党大会で党綱領の用語の「プロレタリアート独裁」を「執権(ディクタツーラ」などと書き換えて“爪を隠した”際に、すでにレーニンの「暴力革命唯一論」を教条視しないと述べていました(第13回党大会「党綱領・党規約改定の提案理由」)。
ようするに共産党はレーニンのごくごく一部を否定しただけで、その本質は忠実に踏襲しているのです。 事実、共産党員なら必ず学ばなくてはならない「独習指定文献」(全22冊)の中にレーニンの著作が4冊指定されています。『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』『カール・マルクス』『唯物論と経験批判論』『資本主義の最高の段階としての帝国主義』がそれです。
ちなみにマルクスの著作は3冊、エンゲルスも3冊あります。共産党員必読の本の半分が共産主義の古典なのですから、スマイリング・コミュニストというのはニセモノであることが歴然としています。
つまり、日本共産党は相変わらず暴力革命の可能性を秘めている革命政党であること、革命後には「プロレタリアート独裁」の一党独裁政権の樹立をもくろんでいること、この独裁政権のもとで宗教・言論弾圧や粛清をめざしていること、などを国民は肝に銘ずるべきでしょう。
レーニン主義と日本共産党
| レーニン主義 | 日本共産党 |
| 鉄の規則(民主集中制) | ◯ |
| 戦闘的唯物論 | ◯ |
| 暴力革命唯一論 | ▲ 暴力革命は否定しないが、絶対視しない |
| プロ独(一党独裁) | ◯ |
(◯は基本的に同意)


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