思想新聞2001年10月1日号 視点・論点special
東京国際大学教授 渥美堅持
富裕だが複雑な生い立ち1.伝統的ジハード論とウサ-マ・ビンラーデン 地球の縮小化、国際化とITの発達により想像もできないテロが9月11日、米国で発生した。その首謀者と目されたのは、ウサーマ・ビンラーデンという人物である。イスラーム以外の世界からは、イスラーム過激派テロリストと呼ばれ、自らは「イスラームの戦士」と名乗るこの人物はいかなる人物か? また、イスラーム教の教える「ジハード」(聖戦)とはどのようなものであるのか? これに関する知識を明確にもっていないと、今回の事件の真相に近づくことができないばかりか、これからの展開を予測することもできないであろうと思われる。
さて、彼の一族はイエーメン出身で、彼が生まれたのは1957年のサウジアラビア王国であった。他の兄弟達の母親は、皆サウジアラビア人であるのに、彼の母親だけはパレスチナ人であった。彼は、成長とともにイスラーム教に深く傾斜し始めるが、もともとサウジアラビアは、イスラーム教スンニー派の中で最も戒律の厳しいハンバル派の流れをくむワッハーブ派で、彼を取り巻く社会的環境そのものが古典的なイスラームの戒律下にあった。
彼はこのように裕福な家庭で生まれ育ったが、一人だけ母親が異なるという環境の中で育ち、小さいときから母親のパレスチナ物語を聞き育ったものと思われる。このように彼は財閥の息子として育ったが、その精神環境は複雑であった。すなわち、こうした幼児から少年期にかけて過ごした環境が、イスラームに理想の世界を求める彼の性格を作り上げていったものと思われる。やがて青年期に入った彼は、イエーメンのイスラーム過激集団とともにイエーメンで活動していた左翼勢力に武装闘争を展開するようになる。
彼は数あるイスラーム運動の中で最も過激な「ジハード(聖戦)活動家」で、イスラーム世界を異教徒の侵略から死をもって守るというイスラーム運動家であった。この時点での彼のジハードに関する判断は、イスラーム教の持つ原則的なジハード論であったと思われる。すなわち、イスラーム教徒の地が異教徒の文化により崩壊されるのを阻止するためにという限定的戦場で戦うという伝統的ジハード論である。
このような彼が理想とする戦場が現れた。それが1979年1月11日に開始されたソ連軍のアフガニスタン侵略であった。冷戦下のアフガニスタンは東西戦略の要として戦略的に最重要地点であった。
特に、湾岸石油地帯防衛のためこの地をソ連に手渡すことは、自由主義陣営の敗退を意味した。当然のことながら米国が動き出し、また石油産油国も動いた。この時、高らかに唱えられた大義名分が「イスラーム防衛戦争」、すなわちジハードの布告であった。
特にイスラーム世界で最もシンプルな法解釈を展開するサウジアラビアでは、イスラーム宗教界が出したジハード宣言により国民的規模でのジハード参加が叫ばれた。直接参加できない国民は資金を供出し、行ける者はイスラームの戦士として参加した。
当然のことながら、ウサーマ・ビンラーデンも参加した。戦地アフガニスタンへ行く彼らに対する国民の声援は大変なもので当然参加者は英雄として称賛された。
このジハード参加は、彼をしてより過激な戦士に育て上げていくことになる。アフガニスタンに渡った彼は隣国パキスタンのペシャワールに設けられたムジャヒデーン(ジハード参加者)軍事訓練センターで戦士としての訓練を受けた。と同時に、過激的なイスラーム教徒としての教育を、アブドゥラー・アッザム博士から受け、使命感の熟成を完成させた。
彼は1989年のソ連撤退までアフガニスタンとサウジアラビア王国を行き来しながら実戦経験を積む一方、86年にアフガニスタン内に「マァサダト・アルアンサール」(正義の支援者集団)という名のアラブ人によるジハード集団を作り上げた。ジハードに成功すればイスラームの防衛はなされ、イスラーム共同体が成立する。そのことに対する貢献は大きい。また死んだとしても殉教者として天国への道が約束される。◎ウサーマ・ビンラーデンの“正体”◎
動機は米国に対する復讐の念
米は限定的攻撃なら非難に値せず2.異端化に走るウサーマ・ビンラーデンのジハード観 この時点でのウサーマ・ビンラーデン論は極めてオーソドックスなものでイスラームの地の防衛であり、そこを破壊しているものの退去であった。今見るようにイスラームの地以外のところでテロを展開するというものではなかったのである。しかしソ連撤退というジハードの成功後、ウサーマ・ビンラーデンのジハード観は変化する。
使命を果たしサウジアラビアに帰国したウサーマ・ビンラーデンを始めとするムジャヒデーン達は政府を始め国民からも大歓迎を受けるものと期待した。しかしその期待に反して母国は彼らを冷ややかな目で迎えたのである。それはちょうどベトナム帰還兵を迎えた米国市民のようであった。彼はこの現実に極めて大きなショックを受けたようである。このような雰囲気の中、彼は家業を手伝い、また自分自身も商売を始め、巨万の富を作り上げる。しかし同時に周辺に元アフガニスタン・ムジャヒデーンを集め、戦闘訓練とイスラーム教の学習を始め、内外のイスラーム団体への支援を開始した。
このような活動に対してサウジアラビア政府は再三警告し、彼とサウジアラビア政府との関係は日増しに悪化した。彼のこうのような行動の根本にはサウジアラビア王国のイスラーム観に対する失望感が存在することを見逃してはならない。そのような中、湾岸戦争が起きる。この時、ウサーマ・ビンラーデンはサウジアラビア政府が異教徒軍の駐留を認めたことに反発すると同時に、非があるとはいえイラクのイスラーム教徒を多く殺したという現実を前に、アフガニスタンでの反ソ闘争がジハードではなく、米ソ抗争の枠組みの中で、米国の手兵として使用されたものであった判断した。これは当時のサウジアラビア内の若手ウラマー達(イスラーム学者)が主張していた論理であり、ウサーマ・ビンラーデンの見解と一致した。
湾岸戦争後ウサーマ・ビンラーデンはサウジアラビア政府の圧力から逃れるために隣国スダーンに移動し、本格的な活動を開始する。1995年11月サウジアラビア・リヤード市内にある国家警備隊訓練施設爆破事件(5人死亡)、1996年6月、サウジアラビアのアルホバル国防軍基地内米空軍住宅複合センター爆破事件(19人死亡)等、サウジアラビア政府と米国への攻撃を明確化させた。そして1996年5月、彼は拠点をスダーンからアフガニスタンに移動させた。サウジアラビア政府は1994年ウサーマ・ビンラーデンの市民権を剥奪しウサーマ・ビンラーデンの資産を凍結した。そしてビン・ラーデン一族も彼を一族から追放した。この時点でのウサーマ・ビンラーデンの行動はイスラーム世界に在する不純物を取り除くという伝統的なジハード論に基づくものであった。
伝統的なジハード論とはあくまでもイスラーム世界の防衛であり、イスラーム世界を越えたところで行う戦いではない。イスラーム世界から侵略者を追い出し、世界を守ること。これが基本的な考えである。現に他にイスラーム集団は自分たちの住む世界の範囲を越えずにジハードを展開している。パレスチナのハマス、アフガニスタンのタリバンなどはその典型的なもので、彼らの行動は彼らの世界から越えていない。
だが彼の行動は異なっていた。1998年ケニアとタンザニアの米国大使館同時爆破テロ(224名死亡)、2000年10月21日、イエーメン・アデン港に停泊中の米海軍イージス駆逐艦「コール」爆破事件〔17名死亡)とその行動場所はこれまでのサウジアラビという枠組みから越えて、イスラーム世界及びそれ以外の世界へと拡大する。この段階でウサ-マ・ビンラーデンのジハード論は伝統的なものを越え彼独自の解釈に基づく行動となる。
これらのテロに共通していえることは、サウジアラビア内でのテロ、それ以外のテロにおいて米国人が大量に殺戮していること、米国の権威が傷つけられていること、という共通点を持っている。もし1993年2月26日のニューヨーク貿易センタービル爆破事件(6人死亡)と1995年4月19日、オクラホマシティーの連邦政府ビル爆破テロ(168人死亡)の二つのケースがウサーマ・ビンラーデンの仕業であるとの確証が得られればウサ-マ・ビンラーデンのジハード論は1993年から展開されたといえ、それは湾岸戦争直後から成立したジハード観となる。
このようにウサーマ・ビンラーデンの場合、その範囲を越え、なをかつ敵を米国に限定し行動している。それゆえ目的はイスラーム世界守るのではなく、米国人への攻撃が主であり、加えて米国の権威を傷つけることにその目的がおかれている。このようなことから結論的に言えることは、彼のジハード論は米国、米国人に対する復讐であり「目には目、歯には歯」というイスラーム以前の感情にほかならない。これは伝統的イスラーム教のジハード論と完全異なるもので、ウサ-マ・ビンラーデン集団と米国の戦争であるといえるもので、イスラーム世界と米国との戦いではない。すなわちウサーマ・ビンラーデンのジハード論は異端であるということになる。それゆえ彼に対する攻撃は、それが限定的であればイスラーム世界から非難されるものではない。
それゆえタリバンのイスラーム知識者会議においてウサーマ・ビンラーデンの国外退去を求めることが合意されたのは、この異なるジハード論が結論の根底にあったと思われる。
「イスラーム教は一つである」とよく言われるが、それは法源としての聖書が一つということであり、聖書の言葉に関する解釈が一つであるということではない。よってウサーマ・ビンラーデンに対する攻撃は限定されるかぎりイスラーム世界を敵にまわすことはない。だが米国の攻撃を限定的に集中することが不可能であった場合、局面は新たなものになる。2.異端化に走るウサーマ・ビンラーデンのジハード観 この時点でのウサーマ・ビンラーデン論は、極めてオーソドックスなもので、イスラームの地の「防衛」であり、そこを破壊しているものの「退去」であった。今見るように、イスラームの地以外のところでテロを展開するというものではなかったのである。
しかし、「ソ連撤退」という「ジハード」の成功後、ウサーマ・ビンラーデンのジハード観は変化することになる。
使命を果たしサウジアラビアに帰国したウサーマ・ビンラーデンをはじめとするムジャヒデーン達は、政府はじめ国民からも、大歓迎を受けるものと期待した。ところが、その期待に反して母国は、彼らを冷ややかな目で迎えたのである。それはちょうど、ベトナム帰還兵を迎えた米国市民のようであった。
彼はこの現実に、極めて大きなショックを受けたようである。このような雰囲気の中、彼は家業を手伝い、また自分自身も商売を始め、巨万の富を作り上げる。しかし同時に、周辺に元アフガニスタン・ムジャヒデーンを集め、戦闘訓練とイスラーム教の学習を始め、内外のイスラーム団体への支援を開始した。
このような活動に対して、サウジアラビア政府は再三警告し、彼とサウジアラビア政府との関係は日増しに悪化した。彼のこのような行動の根本には、サウジアラビア王国のイスラーム観に対する失望感が存在することを見逃してはならない。
そのような中、湾岸戦争が起きる。この時、ウサーマ・ビンラーデンは、サウジアラビア政府が異教徒軍の駐留を認めたことに反発すると同時に、非があるとはいえ、イラクのイスラーム教徒を多く殺したという現実を前に、アフガニスタンでの反ソ闘争が、「ジハード」ではなく、米ソ抗争の枠組みの中で、米国の手兵として使用されたものであった、と判断した。これは、当時のサウジアラビア内の若手ウラマー(イスラーム学者)達が主張していた論理であり、ウサーマ・ビンラーデンの見解と一致したのだ。
湾岸戦争後、ウサーマ・ビンラーデンはサウジアラビア政府の圧力から逃れるために、隣国スダーン(スーダン)に移動し、本格的な活動を開始する。
1995年11月、サウジアラビア・リヤード市内にある国家警備隊訓練施設爆破事件(5人死亡)、96年6月、サウジアラビアのアルホバル国防軍基地内米空軍住宅複合センター爆破事件(19人死亡)等、サウジアラビア政府と米国への攻撃を明確化させた。そして96年5月、彼は拠点をスダーンからアフガニスタンに移動させた。サウジアラビア政府は、94年ウサーマ・ビンラーデンの市民権を剥奪し、彼の資産を凍結。そしてビン・ラーデン一族も、彼を一族から追放した。
この時点でのウサーマ・ビンラーデンの行動は、イスラーム世界に存在する不純物を取り除くという伝統的なジハード論に基づくものであった。
伝統的なジハード論とは、あくまでもイスラーム世界の防衛であり、イスラーム世界を越えたところで行う戦いではない。イスラーム世界から侵略者を追い出し、世界を守ること。これが基本的な考えである。現に、他のイスラーム集団は、自分たちの住む世界の範囲を越えずに「ジハード」を展開している。パレスチナのハマス、アフガニスタンのタリバンなどはその典型的なもので、彼らの行動は、自分たちの世界から越えて展開されることはない。
だが、ウサーマ・ビンラーデンの行動は異なっていた。1998年、ケニアとタンザニアの米国大使館同時爆破テロ(224人死亡)、2000年10月21日、イエーメン・アデン港に停泊中の米海軍イージス駆逐艦「コール」爆破事件〔17人死亡)と、その行動場所はこれまでのサウジアラビという枠組みから越えて、イスラーム世界及びそれ以外の世界へと拡大する。この段階でウサーマ・ビンラーデンのジハード論は伝統的なものを越え、彼独自の解釈に基づく行動となる。
これらのテロに共通して言えるのは、サウジアラビア内でのテロ、それ以外のテロにおいて米国人が大量に殺戮されていること、米国の権威が傷つけられていること、という共通点を持っている。
もし、93年2月26日のニューヨーク貿易センタービル爆破事件(6人死亡)と、95年4月19日、オクラホマシティーの連邦政府ビル爆破テロ(168人死亡)の二つのケースが、ウサーマ・ビンラーデンの仕業であるとの確証が得られれば、彼のジハード論は、1993年から展開されたといえ、それは湾岸戦争直後から成立したジハード観となる。
このようにウサーマ・ビンラーデンの場合、その範囲を越え、なおかつ「敵」を米国に限定し行動している。それゆえ、目的はイスラーム世界を守るためではなく、米国人への攻撃が主であり、加えて米国の権威を傷つけることに、その主眼がおかれている。
このようなことから、結論的に言えることは、彼のジハード論は米国、米国人に対する復讐であり、「目には目、歯には歯」というイスラーム以前の感情にほかならない。これは、伝統的イスラーム教のジハード論と完全に異なっており、ウサーマ・ビンラーデン集団と米国の戦争であると言えるもので、イスラーム世界と米国との戦いではない。すなわち、ウサーマ・ビンラーデンのジハード論は異端であるということになる。それゆえ、彼に対する攻撃は、それが限定的であれば、イスラーム世界から非難されるものではない。
それゆえ、タリバンのイスラーム知識者会議において、ウサーマ・ビンラーデンの国外退去を求めることが合意されたのは、この異なるジハード論が結論の根底にあったと思われる。
「イスラーム教は一つである」とよく言われるが、それは法源としての聖書が一つということであり、聖書の言葉に関する解釈が一つであるということではない。よって、米国はウサーマ・ビンラーデンに対する攻撃に限定されるかぎり、イスラーム世界を敵にまわすことはない。だが、米国の攻撃を限定的に集中することが不可能であった場合、局面は新たなものになる。


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