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思いを新たにした「尖閣諸島の日」

この記事は2011年1月15日に投稿されました

1月14日は尖閣諸島の日であった。尖閣諸島を行政区域にする沖縄県石垣市議会が昨年12月、この日を市の記念日「尖閣諸島開拓の日」とする条例を採択したからである。もともと1月14日は明治政府が明治28(1895)年に尖閣諸島の日本領編入を閣議決定した日である。条例は制定の目的を「尖閣諸島が歴史的にも日本固有の領土として、より明確に国際社会に対し意思表示し、国民世論の啓発を図るため」としている。本来、政府が音頭をとって国民世論を啓発し、国際社会に意思表示すべきだが、内向きの内閣改造にうつつを抜かした。だが、この日に中国漁船の国恥的な釈放を“指揮”した仙谷由人官房長官が更迭されたのは偶然ではあるまい。尖閣諸島を開拓した先人の霊たちが彼を首相官邸から追放したのではないか。そんな因縁を感じてしまう。
 文科省は昨年12月、教科書や教材に尖閣諸島を「わが国固有の領土」であると明記させていく方針を決めている。学習指導要領や解説書の改定手続きを行う予定だ。当然のことだが、一部の親中分子らは中国を刺激するとして、教科書記述に反対している。こんな中国盲従論者の意見など聞く必要はない。粛々と自国領土であることを啓蒙し、訴えていけばよい。読売新聞は1月14日付朝刊で「尖閣諸島の日 中国に負けない対外発信力を」との社説を掲げたのは、時宜にかなっていた。読売社説は次のように述べている。
 「(尖閣諸島について)『領土問題は存在しない』と繰り返すだけでは、対外アピールの面で中国に大きく差をつけられるばかりではないか。外務省のホームページは、尖閣問題の経緯や日本の立場について英語と中国語の説明文を設けている。だが、韓国と領有権を争う竹島問題の方は9か国語と充実している。尖閣問題の紹介も、多言語で対応すべきだ。『竹島の日』を2005年に制定したのも、島根県だ。領土にかかわる問題は自治体任せにせず、政府が先頭に立って内外の世論啓発に努めてもらいたい」
 まさにそのとおりである。

歴史的にも国際法的にもわが国領土である

尖閣問題について我々は昨秋、思想新聞号外を全国で配布し(別掲参照)、わが国領土であることを示し、中国の覇権主義を糾弾し、警戒を国民に呼びかけた。そのポイントは以下の6点である。尖閣諸島は①国際法の「先占の法則」で日本領になった②「実行支配」したのは日本だけである③戦後も国際社会は日本領と承認した④中国・台湾も日本領と認めていた⑤中国の領有権主張の狙いは海洋資源の強奪である⑥中・台の主張は事実無根の欺瞞である。このうち、わが国領土である経緯を以下に紹介しておこう。
 19世紀には「先占の法則」によって領土を決定するというのが国際法の慣わしだった。これは無主の土地(無人島など)を国家が領有の意志をもって実効的に占有することをいう。無主の土地が地球上に存在しなくなった今日においては、こうした概念に違和感があるかもしれないが、当時は「先占の法則」が国際法で認められていた。すなわち、①先占ができるのは国家であること、②先占の対象となる場所は国際法上の無主地であること、③国家は領有の意志をもって先占しなければならないこと、④先占の実体的要件として、先占は実効的でなければならず、無人島を発見し、そこに国旗を立てるというような象徴的な領土編入行為だけでは足りないこと、⑤実効的占有がその後に続かなければならないこと。これが国際法の見解である。尖閣諸島についてこれらの要件を全て満たしたのは日本だけである。
 わが国が尖閣諸島に対して領有意思を持ち始めたのは、1879年(明治12年)頃からである。同年発刊された「大日本全図」(松井忠兵衛編)には、すでに尖閣諸島が個々の島嶼の名称を付されて日本領土として明記されている。また1883年(明治16年)の内務省地理局編纂「大日本府県分轄図」にも、島嶼の名称が付されないまま同諸島が沖縄県の中に見いだされる。さらに、1885年(明治18年)、沖縄県知事は政府の許可を得て「出雲丸」を諸島に派遣し、実地調査の結果を報告させている。また同諸島の実地調査は1892年(明治25年)軍艦「海門」によっても行われた。なお1886年(明治19年)の海軍水路部水路誌、1894年(明治27年)の水路誌においても尖閣列諸島をそれぞれ、「州南諸島」、「南西諸島」の中において扱っている。
 尖閣諸島を沖縄県の所轄とし、国標を建設したいとの上申は1885年(明治18年)、沖縄県知事によって政府に提出され、1890年(明治23年)、1893年(明治26年)にも漁業上の取り締まりを理由として八重山島役所所轄、沖縄県所轄ならびに標杭建設方が同県知事によって政府に上申された。1894年(明治27年)12月27日、内務大臣は右の沖縄県知事上申を外務大臣と協議し、外務大臣もこれを閣議提出方に同意。翌1895年(明治28年)1月14日、沖縄県知事の上申通り閣議も尖閣諸島を同県の所轄とし、標杭を建設すべく決定するとともに1月21日、その実施方を同県知事に指令した。さらに翌1896年(明治29年)4月、同諸島は地方行政区分上八重山郡に、また1902年(明治35年)12月、石垣島大浜問切登野城村に所属することとなり、地番も設定したのである。

中国の主張「日清戦争で奪った」は噴飯モノの作り話

日本政府は、領土編入の閣議決定後、尖閣諸島中の魚釣島、久場島、南小島および北小島4島の八重山郡所属後に国有地に指定、国有地台帳に記載した。1896年(明治29年)、すでに1884年(明治17年)からこれらの島々で漁業を営んできた福岡県の古賀辰四郎氏が魚釣島など4島に対する国有地借用願を八重山郡所属確定直後に内務大臣宛に提出した。この申請を受けた政府は尖閣諸島の開拓を奨励するため、同年8月、同氏に対して期間30年の無料貸与を許可した。国有地の借用許可をえた古賀氏は翌1897年(明治30年)以降、大規模な資本を投じて尖閣諸島の開拓に着手した(尖閣諸島開拓のため古賀氏は最初の4年間、すなわち明治30年35人、明治31年50人、明治32年29人、明治33年男13人、女子9人の労働者を諸島に派遣した)。その結果、1909年(明治42)目年には248人(99戸)の移民が諸島に定住し、開拓事業に従事していた。この功績によって政府は同年11月22日、古賀氏に藍綬褒章を授与した。
 このようにして無人島であった尖閣諸島を我らの先人が開拓し、日本領土となったのである。中国は日本が日清戦争の最中に尖閣諸島を奪ったと強弁しているが、以上の経緯からまったくデタラメな言いがかりであることは明白であろう。
 第1に、「先占の法則」によって領土とした。第2に、日清戦争(1894~95年)のはるか前1884年(明治17年)から日本人が漁業を営んできた。第3に、日清講和条約(下関条約=1895年4月17日)において清は台湾や澎湖諸島(台湾の西の諸島)をわが国に譲渡したが、交渉では尖閣諸島はまったく論議されず、清は自国の範疇外と認識していた。第4に、わが国が日本領土編入を閣議決定したことへの抗議は皆無である。第5に、第2次大戦の終焉に当たってのカイロ宣言(1943年=、米英中3カ国)において「満州、台湾及ビ澎湖諸島ノ如キ日本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還」するとしたが、ここにも尖閣諸島は書かれていない。第5に、1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約は、台湾等の地域(第2条)と、南西諸島などアメリカ合衆国の施政下に置かれるが引き続きわが国の領土として認められる地域(第3条)とを明確に区分し、尖閣諸島は第3条にもとづいてアメリカ合衆国の施政権下に置かれ、沖縄に属する諸島として扱われた。以上から中国や台湾の主張は噴飯モノの作り話であることは誰の目にも明らかである。
 なお詳細については『世界思想』2010年12月号の緊急特集「尖閣諸島の『真実』」をお読みいただきたい。

2011年1月15日

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