思想新聞2002年4月1日号 共産主義は間違っている!!
摩訶不思議な「人権真理教」国・ニッポン 7
全体主社会有機体論に基づく「ウリ式人権」
相対的で不安定な人権理念
Q 国家を論じたことについては、以前にも少し触れましたね。しかしながら、「国家」とか「公共性」を過剰に強調していくなら、そこから現れ出てくるのは、どうも「全体主義」(トータリズム)のような気がするのですが…。
ナチズムとスターリニズムは同じ全体主義
A 確かに、そうだとも言えるのです。くだんの女流政治思想家ハンナ・アレントが、最初の大著『全体主義の起源』(一九五一年)を著したのもまさに、この点でした。つまり、ファシズム(ナチズム)という右翼的全体主義とスターリニズムという左翼的全体主義は、「全体主義」という点において、「同じ穴の狢(ムジナ)」というわけです。アレントは、ユダヤ人ならではの視点でもって詳細な分析を行い、続く『人間の条件』では、「労働」をキーワードにして、マルクス主義の社会構造的欠陥をつまびらかにすることになるのです。アレントの卓越している点は、こうした全体主義の研究から始まって、全体主義の批判のみに終わらない点です。そうでなければ、皮相的な個人主義礼賛に陥ったかもしれませんし、とかく「全体主義」に誤解されやすい「公共性の復権」を敢えて語る必要もないわけですから。
北朝鮮社会の捉える「人権」
Q アレントの思想の重要性はわかりました。けれども、そこでまた疑問が出てくるのですが、「人権」思想についての欺瞞性を強調していくと、例えば「人権が抑圧されている」とされる国については、どう見るべきなのでしょうか。
A 例えば、「悪の枢軸」と米国に名指しされた北朝鮮の場合を見てみましょう。この国の場合、当局が認めてはいませんが、拉致事実の証言や亡命者の例がいくつもあります。
この国が「人権」をどのように捉えているかという点について、興味深い報告があります。韓国の申一徹・高麗大名誉教授がさる二月に東京で行われた「第三回北朝鮮の人権と難民問題国際会議」で報告した内容で、北朝鮮当局の『人権に関する第二次報告書』を受けたものです。
「『人権に関する第二次報告書』は、まず人権そのものに背を向けた、全体主義の理念に対する自己反省、自己批判に基づいていない点からしても、世界人権宣言が公認する“人権”の概念を未だ受け容れていないと言える。……北朝鮮の『人権』に関する概念は、一九四八年の世界人権宣言、七五年の『ヘルシンキ宣言』、特に八一年に加入した『市民的・政治的権利に関する国際規約』の基本にある『個人の基本権』を基にした人権に関する概念を受容・実践したとは言い難い。まず、今回の報告書の冒頭、精論第一条に『自決権』を持ってきた意図は明白である。北朝鮮が市民的・政治的権利に関する国際人権規約(B規約)の中で、旧ソ連などが『自決権』を歪曲、悪用した前例をそのまま利用している。北朝鮮は人類の普遍的な人類法である『人権』の理念を歪曲し、自国に都合よく解釈するために、自国の政治制度の決定という名分をもって北朝鮮の『人民の決定権』を振りかざし、北朝鮮の『ウリ(我々)式人権』の主張をこの『自己決定権』で扮装させ、結局はこの真の『人権』に背を向けた。また、この報告書は国家主権の自主性を強く主張し、国連と国際社会の人権の伸長に関する努力が、まるで北朝鮮に対する『内政干渉』であるかのように強弁してきた根本意図からしても、この報告書は北朝鮮が人権改善に対して自ら実行しようとする誠意も示していない」
やはりここでも「自己決定権」が出てきましたね。そしてさらに、「人民の決定権」「ウリ式人権」というのが曲者です。
このような特異な「人権思想」が唱えられる背景には、いわゆる「主体(チュチェ)思想」が根底にあるわけです。その“真髄”を端的に表した言葉である、「一人は全体のために、全体は一人のために」というスローガンは、スポーツの精神に見られるように美しいものではありますが、その実、「全体主義的社会有機体論からは個人は有機的全体の一部の付属品にすぎない」(申教授)わけです。
ですからこう見ると、「人権」理念が実は、きわめて相対的なものだと見なさざるを得ません。


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