国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1887号 (令和7年11月15日)

ユダヤ人家庭の葛藤 ―主体的な精神的条件―

思想新聞2004年2月1日【勝共理論】マルクス人間疎外論 2

 カール・マルクスは1818年5月5日、トリールに生まれました。父はハインリッヒ、母はヘンリエッテ。両親ともユダヤ教の由緒あるラビ(指導者)の出身。つまり、マルクスはユダヤ人社会の名門に生まれたのです。
 父は1789年のフランス革命とその後のナポレオンのトリール支配から啓蒙思想の影響を受け弁護士(トリール市の法律顧問)になりますが、フランスはワーテルローの戦い(1814年)で敗退。トリールを奪還したプロイセン(ドイツ)は伝統的なキリスト教信仰を押しつけ、ユダヤ教徒を公職から追放する条例を作りました。父は信仰を守るか、それとも職を守るかの選択を迫られ、その結果、職を選び、1816年にユダヤ教を捨てキリスト教に改宗、洗礼名ハインリッヒ(それまではヘッシェル)を名乗るようになったのです。
 これはマルクス家に重大な葛藤をもたらします。厳格なユダヤ教徒である母は改宗に猛反対。そんな中でカールが二男として生まれます。翌19年には長男が4歳で死亡。改宗のゆえの悲劇としてヘンリエッテはますます改宗に異を唱え、そんな父母の葛藤の中でカールは育ちます。カールら7人の子供らがキリスト教に改宗したのは1824年、その翌年にはプロイセンの圧力を受けた夫の説得でようやく母も改宗しました(ちなみに彼女は夫の死亡直後、ユダヤ教に復帰)。
 こうした葛藤はマルクス家の内部にとどまりません。キリスト教に改宗しても、プロイセン社会からは相変わらずユダヤ人として根強い差別を受け、一方、ユダヤ人社会からは背教徒として蔑視され続けたのです。このようにカールの取り巻く家庭的社会的環境はきわめて複雑でした。後に父母の死に際しても彼は哀悼の言葉を述べませんでした。心の底に父母への反発が満ちていたのです。 
 こうして幼年期にマルクスは孤独感、疎外感、劣等感、屈辱感、敗北感にさいなまれていったのです。こうして反抗心、復讐心をつのられ、反抗的、闘争的性格を強めます。また潜在的なユダヤ人固有の召命意識(選民意識)と反抗的闘争的性格とが相まって、体制打倒の革命家としてのマルクスの性格が形成されていきました。
 その反抗心は差別を受けたキリスト教とユダヤ教に向けられ、宗教に対する押さえ難い憎悪心を沸き立たせ、ついには「宗教の抹殺」「神殺し」を希求するようになります。これがマルクスがその思想を形成していく動機となる主体的、精神的条件なのです。

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