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北朝鮮の「拉致」工作の全貌 その1

■特集・拉致問題と日朝交渉■

思想新聞2002年10月1日号【特集】

「8人死亡、5人生存」との安否情報を受け涙の会見となった拉致被害者の家族たち。右端から横田めぐみさんの両親、有本恵子さんの両親。前列左端は生存が伝えられた奥土祐木子さんの父・一男さん
(9月17日、東京・永田町の衆議院第一会館=産経)

 日朝首脳会談でもたらされた拉致事件の安否情報はあまりにもむごいものだった。金正日総書記は「一部の妄動主義、英雄主義者による拉致」と釈明し自らの責任について全く語らなかった。だが、この発言を信じる日本人は一人もいまい。北朝鮮の対日工作は朝鮮労働党および人民武力部によって国家的に行われ、その指令は「最高責任者」から出ていたことは疑いないからだ。その実態を探ってみよう。

■朴大統領暗殺未遂

 ここで取り上げる北朝鮮による国家テロは【1】朴大統領暗殺未遂(74年8月)【2】日本国内での一連の拉致(77年9月~78年8月)【3】欧州での一連の拉致(80年4月~83年6月)【4】ビルマ・ラングーン爆弾テロ(83年11月)【5】大韓航空機爆弾テロ(87年11月)などである(韓国内でのテロ等を除く=以下、図を参照)。

北朝鮮拉致工作の全貌図


 このうち最初の事件は74年8月15日(韓国の光復説)にソウルの記念式典の会場で22歳の在日韓国人・文世光が朴正熙大統領に向かって発砲、凶弾は大統領夫人・陸英修女史に当たり陸女史が亡くなった文世光事件である。文世光に狙撃を指令し資金、偽装パスポート、射撃訓練をほどこしたのが、大阪の在日朝鮮総連生野支部政治部長の金浩竜である。文世光は大阪湾に停泊中の北朝鮮の万景峰号の戦中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員と金浩竜から朴大統領射殺の指令を受けたのである。
 文世光が共産主義者になったのは68年に爆弾教祖といわれた太田竜の創設した「レボルト社」(『世界革命運動情報』発行)を訪問し、ここで朝鮮革命を学んだからだ。同社を足場に活動していのが、東アジア反日武装戦線の佐々木則夫(日本赤軍に合流、国際手配中)らで、彼らは70年代初め「朝鮮研究会」の一員になって朝鮮革命運動に加わった。朝鮮研究会は朝総連が朝鮮労働党の対日・対韓工作の一環として日本人活動家を獲得するために組織したものだ。
 東アジア反日武装戦線は文世光事件の直後の74年8月30日に東京・丸の内の三菱重工本社ビルを爆破し多数の死傷を出したのを皮切りに各地で爆弾事件を起こした。この一連の爆弾事件の背後にも北朝鮮の対日革命工作が存在しているのである。
 金総書記は文世光事件について今年5月、北朝鮮を訪問した朴元大統領の長女、朴槿恵議員に「あなたの母親に申し訳ないことをした。部下がやったことで自分は知らなかった」と語り、北朝鮮の関与を認めたといわれる(9月13日、北京時事電)。

 【当時の北朝鮮情勢(60年代後半~70年代半ば)】

 キューバ危機でソ連のフルシチョフの対米妥協に驚いた金日成主席は62年12月、「四大軍事方針」(全人民武装化・全国土要塞化・全軍幹部化、全軍現代化)を決定し、対韓工作を激化させた。朴大統領を抹殺すべく68年1月、武装ゲリラを南派するも失敗。そこで日本経由の対韓工作に本格的に乗り出し、文世光事件を画策した。70年のよど号事件に触発され、朝鮮革命に日本人を利用することを考慮するようになり、日本国内の過激派グループと接触し組織化した。
 73年2月、金日成主席は「三大革命小組」を組織し、金正日後継体制を始動させ、同年九月に金正日は党中央委書記に選出、さらに74年に政治委員に選出され、それ以降、「党中央」と呼ばれ、対外革命工作の総指揮をとるなど絶対的権力を振るうようになっていく。金総書記が文世光事件を指揮したかどうかは不明だ。ただ同事件の失敗以降、金総書記が対韓・対日工作の全権を握るようになったとされている。

■よど号グループと日本赤軍

 よど号グループと日本赤軍の源流は、共産主義者同盟赤軍派である。共産同赤軍派は69年、武装闘争をめざして結成されたものの、革命闘争は挫折。そこで田宮高麿らは「国際拠点」づくりをめざして70年3月に日航機「よど号」をハイジャック、北朝鮮に逃亡した。また一部は日本共産党から脱党した毛沢東主義者が結成した日本共産党左派神奈川県委員会の下部組織、京浜安保共闘と合体して連合赤軍を作った。連合赤軍は大量リンチ殺人を繰り広げた末に72年にあさま山荘事件を引き起こした。
 一方、赤軍派の幹部だった重信房子は71年に革命の拠点を海外につくる「国際拠点地論」を掲げてレバノンに出国して日本赤軍を旗揚げした。このようにもともと日本赤軍とよど号グループ、連合赤軍は同根である。
 日本赤軍とよど号グループとの接触がはじめて明らかになったのは、76年のことだ。田宮高麿らが76年、イギリスに入ろうとして摘発され、デンマークの北朝鮮大使館に移された後、平壌に送還される事件が起きた。イギリス当局は田宮から日本地図や日本赤軍宛の手紙を押収、田宮が日本赤軍と接触しようしていたことが発覚した。
 それ以降、日本赤軍とよど号グループとの接触はハンガリーやルーマニアなど東欧圏でたびたび確認されている。日本赤軍によるダッカ事件で板東国男(連合赤軍、75年8月のクアラルンプール事件で「超法規的」釈放)や佐々木則夫(三菱重工業爆破犯=東アジア反日武装戦線、同)らが使用していた偽装パスポートは、有本恵子さんらを拉致したよど号グループの妻らが使用していた偽造パスポートと発行年月日が同じで、番号も下1~3ケタが異なるだけの北朝鮮製である。日本赤軍の行動を各地の北朝鮮大使館員がサポートしていたのである。

【当時の北朝鮮情勢(70年代半ば~後半)】

 73年のオイルショック以後、北朝鮮経済は低迷した。輸出が伸びず対外債務の支払いが滞り、78年からの第2次7ヵ年計画は達成することができなかった。
 これに対して韓国は念願の重化学工業に着手し浦項総合製鉄と現代造船の創立など財閥が台頭、農村では「セマウル運動」が順調に取り組まれ「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長が進んだ。しかし貧富の格差が拡大し労働争議、学生運動が多発した。これを北朝鮮は革命の絶好期と捉えスパイ工作員を韓国に潜入させ攪乱工作を試みたのである。

■日本および欧州での日本人拉致

 北朝鮮は工作員を韓国に直接侵入させるのが厳しいことから、在日朝鮮人や日本人に化けて入国させる方法を採用し、このための身代わり日本人(原さんや久米さんら)、さらには工作員を日本人にするための教育係(田口さんら)を必要として日本人を集中的に拉致するにいたったと見られる。また工作訓練員が対日潜入の”証し”のために拉致日本人を必要としたとする情報もある。いずれにしても北朝鮮は77年から78年に日本国内で集中的に拉致した。朝鮮労働党対外連絡部や調査部、作戦部あるいは人民武力部偵察局の指導のもとで拉致が行われた。
 小泉首相との会談で金正日総書記は拉致は「妄動分子や英雄主義者」がしでかしたもので自分は知らなかったとし、拉致の理由についてし「特殊機関で日本語の学習ができるようにするため、日本人の身分を利用して南に入るためだった」と拉致の理由を述べている。しかし、78年には韓国の映画監督申相玉氏とトップ女優さい銀姫さんが金正日書記の直接指揮で拉致されており、日本人拉致を知らないはずがないと言えよう。
 一方、80年代前半にはよど号グループが自らの”戦士”を拡大するために松木薫さんや石岡亨さんらを拉致、さらに彼らの妻を“調達”するため、よど号グループの妻たち、すなわち森順子や小西タカ子、八尾恵元スナック店主らが有本恵子さんらを拉致した。
 北朝鮮は韓国赤化へと動くとき米軍の後方拠点となる日本で日本人による反基地闘争や騒乱を想定して、よど号グループや日本赤軍、さらには日本国内の過激派を利用しようと考えていた。加えてこの時期、金正日盲従日本人を必要としていた。82年は金日成の生誕70周年(4月15日)と金正日の生誕40周年(2月16日)であり、日本からの資金調達および後継体制の強化のために朝鮮総連の組織強化を図ろうと目論み、「日本人ですら金正日書記を慕っている」とのキャンペーンを張りたかったのである。
 そこで組織されたのが「日本キムイルソン主義研究会」である。同会の指導者は共産同の幹部で群馬大学医学部執行委員長であった尾上健一である。70年安保に挫折した尾上は71年秋、朝総連群馬県本部と朝鮮青年同盟の指導と教育を受けて金日成主義者に転向し、72年に「チュチェ研」を発足。これを足場に81年4月、「金日成主席と金正日書記による金日成主義の旗を公然とかかげ、かつそれを第一義的議題として活動していくということを組織的に具現した」とする日本キムイルソン主義研究会を立ち上げたのである。
 この会で金日成主義者になった女性たちがよど号グループの妻として“提供”されたのである。たとえば、よど号犯の一人、赤木志郎の妻となった赤木(旧姓・金子)恵美子は01年9月に帰国して逮捕され、現在、旅券法違反容疑で裁判中であるが、金子は群馬県出身で連合赤軍事件で父が粛清され母が逮捕されて取り残された「頼良ちゃん」を事件後、一時養育していたこともある筋金入りの金日成主義者である。また若林盛亮(国際手配中)の妻・黒田佐喜子もまた群馬県出身である。
 さらに同会の関西責任者が、朴大統領夫人射殺事件の文世光に自らのパスポートを提供した吉井行雄である(文世光は「吉井行雄」で訪韓した)。吉井は81年9月、金日成主席著作研究会全国連絡会議訪朝団(団長、大安和彬信州大学教授)の秘書長として2週間にわたって北朝鮮を訪問し朝鮮労働党の指導を受けた。
 この吉井行雄から金日成主義を学び北朝鮮にわたって、よど号犯・柴田泰弘の妻となったのが(後に離婚)、有本恵子さんの拉致を告白した八尾恵・元店主にほかならない。彼女は兵庫県尼崎市生まれ。74年に私立西宮高校を卒業。資生堂に就職したが、半年ほどで退職。その後、母親が経営する喫茶店を手伝っていたが、76年4月から大阪・高石市にある「南海保育専門学校」に入学。しかし、ここも1年あまりで中退した。この時期に金日成主義グループにオルグされたが、彼女を金日成主義者に育てたのが吉井行雄なのである。
 八尾元店主は77年に北朝鮮に渡り柴田と結婚、よど号グループのリーダー故・田宮高麿から「日本を金日成主義化するため、革命の中核を担う日本人の獲得・育成が我々の課題」と言われ、83年に「ロンドンで日本人、25歳ぐらいまでの若い女性を『獲得』せよ。それまで『獲得』した男性と結婚させる」という任務を受けた。この男性が80年4月から6月にかけてスペインから行方が消えた松木薫さんと石岡亨さんである。二人は森順子らによって拉致された。
 八尾元店主はロンドンで英国留学中の神戸市外大生の有本恵子さん(当時23歳)に偽名で近づき、市場調査のアルバイトをしないかと北朝鮮大使館のあるデンマークに誘い出し、83年7月、同国のコペンハーゲンでよど号メンバーの安部公博容疑者と北朝鮮対日工作員の金ユーチョルと引き合わせ「北朝鮮に一緒に行こう」と誘い、モスクワ経由で北朝鮮入りさせた。金ユーチョルは朝鮮労働党の工作機関「対外連絡部」に所属する大物工作員で当時、西側情報機関は金工作員を常時マーク、83年7月にコペンハーゲンのカストロップ空港で金工作員と有本さんの写真を撮影していた。

【当時の北朝鮮情勢(80年代前半)】

 80年は北朝鮮が韓半島の赤化統一のみならず日本革命に積極的に動いた時である。79年10月に朴大統領が側近に射殺され韓国が大混乱に陥り、80年5月には学生運動が尖鋭化し光州事件が勃発。革命絶頂期と見たからである。一方、79年12月にソ連がアフガニスタンを侵略、80年代に入ってソ連は大平洋艦隊を強化して「アジア革命」を強力に志向するようになった。
 これに呼応し82年の金日成生誕70周年と金正日生誕40周年をソウルで迎えようと北朝鮮は革命工作を激化させた。こうした流れの中で83年4月に西新井事件が起こる。同事件は北朝鮮工作員「小住健蔵」が訪日予定のレーガン米大統領の暗殺計画を練っていたもので、工作員グループが逮捕されたものの「小住健蔵」は直前にクアラルンプールに出国、ここで消息は消えた。「小住健蔵」は本物の小住健蔵さんにいつの間にかすり替わっていたもので、小住健蔵さんは現在も行方不明。北朝鮮に拉致されたのではないかと見られている。

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