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新学習指導要領 時間をかけて子どもとかかわりあう教育の本質を思い返せ

思想新聞2002年4月1日号【視点論点】

学習院女子大学教授
久保田信之氏

 ほぼ10年ぶりに学校教育の指針たる学習指導要領が改訂された。昨年7月の答申で、文部科学省の諮問機関である教育課程審議会が力説していたことは、「知識の量で学力を測る従来の教育から、興味・関心・態度を重視する『心の教育』に転換すべきだ」であった。これを受け文科省は現職の教師や学者ら何と約450人を動員し学習指導要領の作成を進めたという。教育改革に期待した向きにとって、結果は「あきれ果てた」というのが実感ではなかろうか。  甘い現状認識 『総則』に明らかなように、新要領は「開き直り」が足りず、交通整理ができていない。すなわち「基礎・基本的な内容の確実な定着」を求めることにはなぜか及び腰で、「各学校において、生徒の生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図る」ことをまず力説し、「個性を生かす教育の充実」で締めくくっている。
 「生きる力」は先の中央教育審議会の答申でも使われたが、犬畜生にもある。「よりよく生きる力」を持つよう、子どもたちの資質を高めてこなかったから、現在、「野獣」が巷に溢れてしまったのではないか。
「個性を生かす教育」も問題。「人間には生来的に個性が備わる」との思い込みは、誤解も甚だしい。「訓練なき個性」は「野生」でしかない。「教育の結果、訓練・鍛錬の結果、個性といえるような力が形成される」のではないか。「個性をはぐくむ教育」「資質の高い個性の育成」と、この個所を書き直さなければ「好き勝手にさせる放任」「教育しない、教育できない教育現場」が改善されない。  矛盾だらけの作文 新要領の目玉の一つ、「横断的・総合的学習」については、「地域の実態や児童の興味・関心に応じた指導」と小学校の要領でも中学校の要領でも力説。さらには「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断する資質や能力を育てる」と述べる。「学び・考え・判断する資質や能力を育てる」ことは大賛成だが、「児童の興味・関心に応じた指導」とはどう考えても両立すまい。今の「地域に教育力がある」と思っているのか。「地域の実態に応じる指導」をして、子どもの資質を高められると本心から信じているのか。神経を疑いたくなる。
 確かに『総合的な学習の時間』の項目で述べる内容は、それなりに正しい重要な指摘だ。「主体的に考え解決する資質や能力」、さらにはその「方法・態度」を育てるのだという。従来ややもすると軽視されてきた、いわゆる「形式陶冶」に力点を移行しようという気持ちは理解できる。
 しかし、相変わらず国語・社会・数学等々といった教科ごとに「年間標準授業時間数」を割り当て、細切れ授業を容認しているではないか。「総合的・横断的な学習」の必要性は「細切れになり爆発的に増大する教科中心主義」に対する否定に根拠を置いた発想であろう。時間数を削減した「細切れ授業」と並存させるだけだから、「総合学習」について、どれほど立派なお題目を唱えたところで、今回の新要領の目玉・総合的な学習の時間は「子どもの、貧弱な・低俗な興味・関心」に従属し、振り回された、「粗雑な・総花的な・程度の低い一教科目」となってしまうのが落ちではないか。
 訓練・鍛錬、さらには成長・発展といった「教育にとって必須条件」を持ち合わせない「お遊びの時間」を置く必要はまったくない。学校五日制に踏み切る緊迫感が感ぜられない矛盾だらけの作文である。  学力がつかない 新要領では、新タイプの授業として、子ども自身の関心を基に教科の枠を超えて自ら考える力を育てることを目指す「総合的な学習の時間」を設置し、小学校では三年から週三時間、中学校では二時間以上をこのために割いた。この「総合学習」を導入するとの至上命題を実現するために、学習内容を基礎・基本に絞り込み、現行の「三割削減」を打ち出したのが大きな柱であるといえよう。
 ところで、新要領の内容にある「基礎・基本」の絞り込み方は、従来の「上から下へ」「単純から複雑へ」といった子どもの生活体験無視の「準備説」に依拠しているのである。しかし、他方では「大きな柱」として子ども自身の関心を基に教育を展開すると言いながら、論理的に意見を述べる能力など「コミュニケーションできる能力」を求める「総合的な学習」を新設した。
「完成段階に到達させる準備説」すなわち「いずれ役に立つ基本的な知識だから学ばせる」という思想と、「下から持ち上げ発展・成長させ拡大させる哲学」、すなわち、子どもの興味・関心を重視する「生活中心主義」とを両立させることは容易なことではない。小手先の文章で処理できるくらいなら、だれも苦労しない。  教育の本質とは 知的文化遺産の爆発的増大は避けられない。加えて、学校五日制の実施も受け入れざるを得ない。こうなった以上、従来の「教科中心主義」にしがみつくわけにいかないことも十分理解できる。確かに「学校教育のスリム化」は必要である。とは言え「横断的・総合的な学習」の導入が解決策だと見るのには俄かには賛成できない。
 これは何も今に始まったことではないが、現行の原理や原則さらには制度や方法に幾多の矛盾や問題が出てきたからといって、これとまったく別の「新しい原理・原則を立てれば解決する」というような安直な取り組み方はすべきでない。新しい原理・原則には新しい矛盾や問題点が内包されているものである。原理・原則を取り替えて、学校教育を根本から変革するなどということは容易なことではないのである。
 もちろん、変革を恐れるものではないが、教育現場を支えている要素は非常に多いし根は深い。「新しもの好き」が今までどれほど教育界を混乱させてきたことか。教育界においては、ことのほか「古い」を「悪い」と同義語にしてはならない。「温故知新」を軽視したら人間形成は軽薄になる。
 しっかり教え込んで、落ちこぼれをつくらない、このモットーにより「日本の学校教育は世界一優れている」「日本の先生は世界一教育熱心だ」と評価されたのだ。現行より何と「70時間を削減する」新学習指導要領に準拠すれば、現在以上に落ちこぼれをつくり、学力の低下をもたらすことは必定ではないか。「子供たちとの関わり合いに時間をかけ、手間隙かける」、この行為そのものが「教育の目指すところだ」という「古くて新しい教育の本質」をぜひ思い返してほしいものだ。
 教師が生活に「ゆとり」を求めたとき、「職場を放棄した怠慢教師」との厳しい評価が浴びせられることを覚悟しなければなるまい。現に、東京の台東区や足立区では、住民が立ち上がり土曜日に補習授業をするという。素人に職場を占領されても痛みを感じないのか。
 (協力=世界思想、文責=編集部)

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