思想新聞2004年3月1日号【視点論点】
「北朝鮮に拉致された日本人を
救出するための全国協議会」会長
佐藤勝巳氏
国を愛する力が運動に結集
まず、日本の国家と国民の関係が今どうなっているかについて話したい。
かつて湾岸戦争の際、イラクにいた外国人は収容所にいた。この上空を飛行機が飛んでくると、外国人は一様に国が救出しに来てくれたと、飛行機に向かい手を振った。日本人だけが部屋の隅に隠れ「フセインが爆撃に来た」と言って毛布を被って震えていた、という。
これが意味するのは、誰も国が助けに来てくれるなどと考えない。つまり国民の側が国や政府を信用していない。政府の側も、国民を救出に行くことはありえない。そうした印象を強くした。
一昨年、北朝鮮に拉致された5人の被害者が帰国した。その中の一人、新潟県柏崎市の蓮池薫さんは、家族に密かに次のように語ったという。
自分は拉致されてから3年間、日本政府が助けに来てくれると信じていた。が、3年経過しても、その気配すらないのを知って、自分がいつまでも日本に帰りたい、日本を頼る、そのような考えではこの国で生きていけない。そこで180度、前向きの考え方に変わった。それは帰国を諦めこの社会でいかに生きていくか、ということだった。つまり生まれ育った祖国と縁を切って生きていく道しかないと覚悟を決めた、と。
これは、日本という国家の深刻な問題を露わにする。湾岸戦争の話も、蓮池さんの話もそうだ。国家というものを信用できない、ということだ。国家が威信を懸けても国民を救出する、という思想がない。それが現状であることを認めざるを得ない。
私が拉致救出の運動に携わって六年になる。朝鮮問題に関わってから間もなく半世紀。だから拉致問題は、朝鮮半島に関わってからたかだか七分の一だ。私が拉致問題に関わるきっかけは、今日話された横田拓也さんの母・早紀江さん、そして父・滋さんから、是非とも拉致救出運動に参加してほしい、と要請を受けた。
ただ私は、北朝鮮がどれほど怖い国か、目的のためには手段を選ばぬこの国を、長年に渡り見てきた。(当時13才の)横田めぐみさんが拉致され北朝鮮におり、日本でその救出運動をすること、それは何を意味するのか。例えば日比谷公会堂で拉致救出の大集会をやる。1800の会場が全て埋まった瞬間に、拉致された人たちが「消される」のではないか、という不安に襲われた。
運動が広がれば広がるほど、そして世論が支持をすればするほど、取られた「人質」が「消されるのでは」という恐怖が、運動をやっている私の中で絶えず抵抗し、葛藤し続けた。参加を要請された当時、約半年の間、躊躇したほどだ。
運動をしていく過程で、非常に印象に残ったことは、横田さん夫妻がゼッケンやタスキをつけ、めぐみさんのパネルを掲げ、街頭に立って署名を訴えた。当時、横田夫妻の訴えに耳を傾けてくれる人はほとんどいなかった。特に東京では、ビラを受け取る人は五百人に一人ほどで、ほとんど見向きもしない。
この状況を見て私は、これでこの国はおしまいになるのでは、と思った。十三歳の少女が言葉もわからない国に暴力で拉致され、両親が必死になって訴えているのに、道行く人たちがビラすら受け取ってくれないのだ。人の痛みや辛さを共有する感覚を日本人は失ってしまった。「もうダメだ」という絶望感に何度も襲われた。
ところがそうではないことがわかってきた。それは第一回目の日比谷の大集会を計画した時。あらゆる知人に片端から「日比谷に参加を! 支援カンパも乞う」という郵便物を全国に送り訴えた。するとどんどんカンパが集まってきた。額にして1千万円。拉致問題に共鳴するわが国の人々が存在することを発見した。
そして通信欄の「がんばれ! あなた達の運動は正しい」というメッセージが、私たちそして被害者家族の皆さんを勇気づけてくれた。それがなかったらこの運動は二年ぐらいで潰れていただろう。
こうした義援金で、横田夫妻が全国に訴えに走り回ることができた。同じ被害者の家庭を訪問して話し合うことができた。
私が家族会の皆さんや救う会のスタッフにいつも言うのは、「運動が今日このように発展したのは、心ある国民の力によるものだ。何があってもそれを忘れてはならない」と。
だから、運動を始めて数年が経ち、「この国は捨てたものではない。国を愛する人たち、侵された主権に対して怒りをもっている人たちが、確かに存在する。拉致救出の運動というのは、そうした国民の力によって今日に至っているのだ」との確信を深めている。(建国記念の日国民集会の記念講演より、文責・編集部)


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