思想新聞2001年9月1日号【視点・論点】
評論家 井上茂信氏

終戦記念日の8月15日の靖国神社参拝を前倒しして13日に参拝した小泉純一郎首相の決断は、「世界の中の日本の立場」を配慮した苦渋の選択であった。
首相の決断に対照的な反応を示したのは、産経新聞と朝日新聞の社説だった。産経は「苦渋の決断だが信を失う」として参拝前倒しは、15日参拝を表明した首相発言の重みからみて、国民の信を損ない、「改革断行」を掲げている首相の決意を疑わせるものであり、「靖国問題」を外交カードにしてきた中国・韓国の圧力をさらに高めさせる結果になろうと論じた。
朝日は、「これが熟慮の結果か」のタイトルのもと、軍国日本による侵略や植民地化の傷が癒えない近隣諸国の人たちにとり、首相の靖国参拝は悪夢をよみがえらせるようなものだ、隣国の不信を招く参拝そのものをやめるべきだったと論じた。さらに、同社説は戦争責任の問題に答えない首相の歴史認識に疑問を呈するとともに、8月15日の社説「歴史に対する責任とは」で「戦後の原点」に立ち返ると、避けて通れないのは、「昭和天皇の戦争責任をめぐる問題」としている。
朝日社説は、過去の日本の行動をすべて真っ黒に描く、いわゆる自虐史観に基づくものだ。天皇の戦争責任まで持ち出しているのは、マルクス主義的な発想が背後にあるためだろう。昭和天皇が開戦に反対だったのは多くの史実で立証されている。さらに明治憲法下で、天皇の政治は輔弼(ほひつ)を受けることが決められており、政治上の決定権はなく、内閣の相違には原則として異を唱えることはできなかった。
産経の社説には共感する点が多い。とくに、中韓両国が「靖国問題」を外交カードとしてきたことは不愉快な事実である。しかも、その背後に、日本国内の左派分子が外国の干渉を借り自派の勢力拡大を図る動きがある。教科書問題でもそうだったが、日本の内情を中韓に「ご注進」し、対日圧力をかけさせ、それを一部マスコミが大々的に報じる昔からのパターンだ。
産経社説の問題点は、朝日的自虐史観の反動としての自愛史観的発想が目立つことだ。日本の過去をできるだけ真っ白に描こうとする歴史観だ。日本人に自尊心を持たせようとする同紙の意欲は理解できるが、「世界の中の日本」の視点がやや欠けているのではないか。
首相の参拝は、首相談話とのセットで行われた。首相談話は「先の大戦では誤った国策に基づく植民地支配と侵略を行い、アジアの近隣諸国に対して、計り知れぬ惨害と苦痛を強いた」と指摘、「参拝はこうした我が国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに哀悼の意を捧げるため」と述べた。村山(当時首相)談話以上の戦争への反省表明であり、中韓両国にも訴えるものがある。
中国や韓国は靖国神社を近代日本の軍国主義の象徴と考えており、首相参拝は、日本の軍国主義復活を意味すると見る。しかし、これは大きな誤解であり、異文化コミュニケーションの問題だ。
中韓両国はA級戦犯の靖国合祀を取り上げ、「侵略戦争の罪人」への礼拝だと重視する。しかしこれは神概念についての誤解からきたもの。ライシャワー博士が『ザ・ジャパニーズ』で指摘したように、日本人にとって神仏とは自然現象、神話上の祖先、非凡で畏怖を感じさせる人間であり、倫理的な是非理念を伴わない。よって、参拝は神への畏れによるものにすぎない。
さらに戦争責任についても、先の戦争は山本七平氏が言うように、日本人全体が一種の「空気」に支配され突入したもので、国民全体が責任を負うべきだ。その点ナチス・ドイツとは異なる。しかもA級戦犯であれ死ねば神仏になるというのが日本人一般の心情で、参拝は戦前の彼らの行為を賛美することとは関係ない。その点、「水に落ちた犬は叩け」とか「死者に鞭打ち」「墓を暴いて怨讐を辱める」中国の風習とは異なる。
このような異文化交流の点から靖国問題で中韓両国との意志疎通が図られたなら事態は異なっていただろう。この点、首相の参拝再考を要求した中国の唐外相の言い分を一方的に伝えるだけで、理解を求める真剣な努力をしなかった田中外相の責任は大きい。中韓両国との関係悪化を、米国も心配していた。幅広い国益を考えねばならないという首相の職責を果たし、参拝の公約を守るには、今回の選択はやむを得ないものだったと言える。


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