国際勝共連合 機関紙 思想新聞は創刊56年 通巻1898号 (令和8年5月1日)

小泉首相の靖国参拝問題「哀悼の誠」捧げるのは義務だ

思想新聞2001年8月15日号 主張

 小泉純一郎首相は自民党総裁選の最中から靖国神社参拝を明言し、その是非をめぐって賛否両論が飛び交っている。しかも論争は国内のみならず中国や韓国に波及し、外交問題化している。はたして首相の靖国参拝をどう捉えるべきなのか。

英霊を蔑ろにして国家の未来はない

 第一に言えることは、国家の為に生き、生命を投げ出し、犠牲の道を歩んだ国民に対して首相が「哀悼の誠を捧げる」(小泉首相)ことは当然の行為であるということだ。
 「ある個人が、もう一人のために自身を犠牲にするならば、その個人は他の人々にとって英雄となる」(文鮮明師『人間に対する神の希望』)。同じように国の為に犠牲となった人は国家の「英雄」とある。アメリカ独立戦争に際して青年ナタン・ヘールは英軍に捉えられて処刑されるとき「私は国のためにたった一つの命しか捧げれられないことが残念だ」と語った有名な逸話が残っている。アメリカ国民はいまなお彼を「偉大な愛国者」として尊敬し続けているが、そうした尊敬心を失えば大国・米国といえどもたちどころに衰退するであろう。
 国連の平和維持活動(PKO)に積極的に参加しているスウェーデンでは、PKO活動で犠牲となった兵士の遺体が帰国する際、大統領自身が空港に出迎えて栄誉を称える。それが国家の犠牲者に対する礼というものであろう。
 しかるに日本はどうか。カンボジアでのPKOで犠牲となった岡山県警の高田警視の遺体を関西空港に出迎えたのは首相の代理人でしかなかった。そして何よりも遺憾なことは靖国神社に奉られている英霊をないがしろにし、参拝しない首相が続いてきた非情な現実である。こうした国が今後も生き残ることができようか。   
 小泉首相は靖国参拝で「哀悼の誠を捧げたい」と言う。国民の大半もまた哀悼の誠を捧げてもらいたいと切望している。そ心情を踏みにじろうとするのは、亡国の徒である。
 第二には、首相の靖国神社参拝を憲法二〇条違反と主張する人々がいるが、そうした主張はまったく筋違いであるということだ。
 憲法二〇条は信教の自由を保障している。信教の自由とは第一にに内心における宗教上の信仰の自由を指し、憲法一九条の思想・良心の自由の一部をなす基本的人権のひとつである。この信教の自由を保障するということは、ある特定の宗教を信じる自由(宗教を信じない自由も含むとされる)、さらには信仰について沈黙する自由も保障されるし、布教、礼拝、儀式その他の宗教的行為を行う自由も保障する。
 これが二〇条で保障する信教の自由の目的であり、その効果として、つまり目的どおりのよい結果が得られるように、二〇条一項から三項に政教分離の規定を設けているのだ。イギリスの国教会は国教となっており、米国大統領は就任式で聖書に手をおいて宣誓するが、これらの国が信教の自由を奪ってはいないし、政教分離に違反しているわけでもないのは、目的と効果から見れば当然のことなのだ。
 だから、津市地鎮祭訴訟で最高裁は「社会事象としての広がりを持つ宗教と国家や公共団体は完全に無縁でありえないので、社会通念を基準として宗教的な意義を持つと認められ、また特定の宗教を助長し他の宗教を圧迫する効果を持つと認められる活動でなければ『宗教的活動』に当たらない」との判決を下しているのである(77年7月)。
 わが国は正月に8千万人の国民が神社に参拝する国柄である。8月15日の首相の靖国参拝は国家の犠牲者に対する慰霊であり、宗教的意義を持つものではなく、ましてや特定宗教への援助や干渉や圧迫でもない。あくまでも世俗的行為としての慰霊なのである。
 にもかかわらず靖国参拝を違憲と唱えるのは、政教の「完全分離」によって、わが国の宗教的道徳基盤を一掃しようと企てている輩に相違ない。それが共産主義者たちである。共産主義者は性自由化教育を学校に持ち込んだり、あるいは学校で「合掌」して給食を始めることを違憲として止めさせようとしたり(96年・富山県)、宗教的基盤を崩そうと躍起である。
 首相の靖国参拝が違憲として中止させれば、次には伊勢神宮参拝も違憲、正月に市役所や郵便局に門松を飾るのも違憲、盆休みも違憲などなど、日本社会から宗教的行事や慣習がすべて一掃され、唯物論的風潮のみが残されることになるだろう。それこそ共産主義者の狙いである。
 むろん、「A級戦犯」合祀(ごうし)問題や外交問題などが複雑に入れ乱れ、政治材料に利用されている嫌いを無視できず、これら問題解決への努力を怠ってはなるまい。しかし、それらを根拠に慰霊を止めるほうが、国家にとってもっと大きなマイナス効果が生じることをわすれてならない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました