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印パ紛争の根源を探る 挫折したガンジーの悲願

思想新聞2002年6月15日号【1面top】

必要な多数派と少数派の融和

 インドとパキスタンの関係悪化が、エスカレートしている。問題の発端は、カシミールを巡るもので、テロリストが両国の停戦ラインを越えて、インド領に浸入、破壊活動を行っていることで、業を煮やしたインド政府がついに,核戦争の危険をも辞さないとの構えを示したことである。今までのところ、米国が急遽、調停に立ち上がったことで、最悪の事態に立ち至ることはなさそうだ。
 インド亜大陸に、旧宗主国・英国から独立、二つの国家ができたのは、1947年のことであった。それ以来、この二つの国家は今に至るまで、絶えることなく血肉の争いを展開してきた。インドは常に軍事力でパキスタンを圧倒、力の優位を背景に、対パ外交を展開してきた。他方、パキスタンはインドに続き核装備を保有するなど軍事力でも対抗するとともに、直接・間接のテロ支援活動でインドを揺さぶり、打撃を与えてきた。
 印パの最大の懸案は、カシミールの領有権を巡るもので、これまでにも二度に渡ってこの問題で熱い戦争が勃発した。カシミール地方は、住民のほとんどがイスラム教徒。ヒンズー教徒は元の支配者であった藩王とその取り巻きぐらいであった。独立時のどさくさの中で、藩王は印パ双方からの独立を考えていたが、先にパキスタン軍が侵攻してきたため、インドに救援を依頼した。印パ双方による第一次カシミール戦争である。結局、停戦ラインを挟んでカシミールは、二つに分断された。
 独立時に英国が調停した暗黙の原則から言えば、ヒンズー教徒多数派地域はインドに、イスラム教徒多数派地域はパキスタンにということだから、同地域の領有権を主張するパキスタンに正当性があるように思われる。しかしインドは元々、世俗的民主主義国家として宗教による領土分断をみとめる立場を拒否している。また、独立後50年余を経た今日、インド側のイスラム教徒の間には、印パ双方に距離を置く考え方が広まっている。つまりパキスタンに今更、領有されるよりも、インド領のままで出来る限りの自治権を得た方がいいとの立場である。
 穏健イスラム教徒の台頭を恐れるカシミールのテロリストは、インド政府や軍へのテロとともに、影響力の大きい穏健派へのテロ(暗殺)をも行っている。
 こうしたことから、国連決議が勧告する住民投票による問題解決も、パキスタンが期待する結果が得られるかは疑問である。独立志向の住民意思を無視して、印パいずれかへの帰属のみを問う形の解決策は無意味である。カシミール問題は、インド、パキスタン、カシミール住民の三者の意思が違っているが、国連はインド政府とパキスタン政府の意向以外に、住民の真意を汲む形の解決策を求めなければならず、複雑である。
 インド政府の強硬派が描く対パ軍事戦略は、パキスタンがもはや二度とインドの脅威となリ得ないまでに懲らしめる、というものである。仮に、戦争が起こればインドは、国境付近でパキスタン軍を破るだけでなく、首都イスラマバードまで攻めて、これを占領、パキスタンが再び立ち上がることが出来ないことを確かめて、撤退するとのシナリオ。これは、インドの対パ強硬派の脅しか、空論にすぎないが、インドから見れば、現実にはこうする以外にテロ問題や対パ関係の行き詰まりを打開する道がないようにも見える。
 インド側の要求は、パキスタン側カシミールにあるテロリストの拠点を廃棄し、テロリストのインド領への浸透を阻止せよ、との点にある。これに対しては、カシミール全体がインドに不法に占拠されたものであり、カシミール闘争はインドの暴挙に対する正義の闘争である、というのがパキスタンの立場である。
 印パ紛争解決の難しさは、第一に、印パ双方の困難な内政事情がある。両国とも、自国の問題を隣国との問題にすり替える構造が確立している。
 インドは、80年代後半以降、マハトマ・ガンジー以来の歴史と伝統を誇るインド国民会議派が弱体化し、野党政権が相次いで誕生するに至り、政治や社会の混乱が日常的となった。各地で民族や宗教の違いを理由とした分離闘争やテロ事件が勃発した。その象徴的な事件が、ネールの直系であるインディラ・ガンジー元首相(ネールの娘)、ラジブ・ガンジー元首相(同孫)が、それぞれシーク教徒過激派とスリランカのタミル人過激派の手で殺害されたことだ。会議派は、もはやインドを導く力を失ってしまったかのように見えた。
 ここに登場したのがヒンズー教徒過激派の反イスラムキャンペーンだった。ヒンズー教徒の理想的な国家建設。これが80年代後半からインドを沸き立たせた。その結果、インド内部では、イスラム寺院破壊問題など、ヒンズー教徒によるイスラム教徒への迫害を呼び起こし、対外的にはパキスタンとの間の不信感を強めることになった。
 パキスタンも同様、内政問題が困難になる度に、インドへの反感となって集積していった。その上、パキスタンはアフガン問題で、浮き彫りにされたように、イスラム根本主義思想の温床となっている。インドとの闘争では、イスラム根本主義が最も有効な武器となる。冷戦時代に反ソ親米路線を取ったジアウル・ハク元大統領も、強力な軍事独裁を敷いたが、軍にイスラム根本主義思想を導入した事で知られている。また、パキスタンで行われた過去の一般政党による民主政治は、度の過ぎた腐敗と失政で、国民の信頼を失った。
 テロとの闘いを余儀なくされている欧米先進国から見れば、ムシャラフ軍事政権はベターな選択である。しかし、根本主義思想はムシャラフの膝元の軍内部にも浸透しており、インドや、米国の要求にムシャラフ大統領がどこまで応じることが出来るか、計算を誤れば、反米の根本主義者政権が誕生する可能性もあり、インドにとってもより危険な事態が出現することもありうる。
 印パ紛争の根源は、両国の英国からの分離独立が、憎悪と不信の燃え盛る中で行われたことにある。歴史を振り返ってみよう。パキスタンの創立者ジンナーは独立闘争時には、ヒンズー教徒の愛国者とともに、反英闘争の中心であった国民会議派にあって、独立闘争を展開してきたが、心には同僚のヒンズー教徒に対して深い猜疑心と不信感を抱いてきた。
 80年代の映画「ガンジー」は、俳優が実際の人物に極めて良く似ていることと、歴史に忠実に描いていることで定評がある。この中でニューデリーに乗り込んだ最後のインド総督マウントバッテン卿との会談前に統一インドを受け入れるように懇願するガンジーに対し、ジンナーがこれを拒否する場面がある。
 ガンジーは、ジンナーを首相にし、閣僚任命権をジンナーに委ねるほどまで譲歩するが、ヒンズー教徒側が猛反発、ガンジーは孤立。悲嘆のどん底で独立を迎える。当時から今日まで、何百万人もの人々が宗教対立の嵐の中で殺戮されたことが、ガンジーの立場の正しさを証明している。
 ガンジーの考えをヒンズー教徒への裏切りと見なしたのが、過激ヒンズー教徒である。現在のインド政権の中核をなすインド人民党(BJP)はこの流れを汲むグループが主流だ。バジパイ首相はそれでも、BJP穏健派と言われ、偏狭なヒンズー・ナショナリズムに反対している。
 マウントバッテンとの会談に向かう時、「ジンナーに死を」と叫びイスラム教徒へ譲歩するなとデモするヒンズー過激派の青年たちにガンジーは「君達のその叫びが、イスラム教徒の心に恐怖と不信を植え付けている」と激しく反発する。独立後の印パ関係の深淵を見事に象徴する場面だ。
 流血の独立以来五十年余が過ぎた。ソ連共産主義も、誕生から70年後の90年代始め、内部から崩壊、憎しみと不信の東西対立の歴史に終止符が打たれた。印パ両国も、長い間憎しみと猜疑心の虜となってきたが、破壊以外の何ものをも生み出さなかった。印パの世論に、不毛の対立に終止符を打たねばならないとの良識が、憎しみの心を克服する時に真の融和がありうる。
 (国際ジャーナリスト・西邦男)

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